長野県立歴史館 信濃史料

「信濃史料」 巻十 (1頁~)


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天皇 年月日 西暦 記事
後土御門明応三年1494相摸禅興寺明月院塔主英璵、玉隠、円覚寺帰源庵塔主禅懌叔悦、の歳旦の詞を和韻す、1
後土御門明応三年1494岡谷市照光寺の大日如来像、成る、2
後土御門明応三年八月九日1494建仁寺大昌院塔主竜沢、天隠、伊那郡法全寺の僧全竜梅渚、の請に応じ、その師前山城興聖寺・伊那郡開善寺住持智云古雲、の頂相に賛す、2
後土御門明応三年一二月五日1494諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、4
後土御門明応三年1494水内郡長沼淨興寺巧観、本願寺兼寿蓮如、より、和歌を与へらる、5
後土御門明応三年1494佐久郡竜雲寺住持祥貞、天英、上野長源寺を退き、同寺に再住す、6
後土御門明応四年1495相摸禅興寺明月院塔主英璵、玉隠、建長寺宝珠庵の徒演蔵主義栄、の請に応じて、道号及びその頌を与ふ、8
後土御門明応四年二月七日1495前筑摩郡広沢寺・伊那郡竜勝寺住持梵清、天宙、広沢寺に寂す、9
後土御門明応四年三月一五日1495伊那郡文永寺僧宗詢、信濃に下向せんとし、是日、三条西実隆を訪ふ、12
後土御門明応四年1495相摸禅興寺明月院塔主英璵、玉隠、某人の請に応じて、荏柄天満宮神像の模画に賛す、13
後土御門明応四年八月五日1495伊那郡文永寺僧宗詢、亡母の十三回忌法要を行ふ、14
後土御門明応四年1495鎌倉風水の災あり、相摸禅興寺明月院塔主英璵、玉隠、之を慨歎し、詩を作りて建長寺住持顕騰竺雲、に呈す、尋で、顕騰、その韻を和す、16
後土御門明応四年一一月三日1495伊那郡文永寺僧宗詢、金剛界念誦私記を抄写す、17
後土御門明応四年一一月八日1495祖正、心伝、木曽定勝寺大般若経の音義を書写す、18
後土御門明応四年一一月二八日1495冬至、信濃の僧古心、相国寺住持周麟景徐、の会下に於て、秉払を勤む、19
後土御門明応四年一二月一二日1495諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、20
後土御門明応五年正月八日1496相摸禅興寺明月院塔主英璵、玉隠、建長寺竜華院塔主顕騰竺雲、に招かれ、詩を作りて、之に呈す、22
後土御門明応五年1496恵芳右春、等、木曽興禅寺仏殿を建立す、23
後土御門明応五年六月一四日1496仁科明盛、安曇郡仁科神明の式年造営を行ひ、是日、遷宮を行ふ、26
後土御門明応五年1496美濃愚渓寺大心院塔主玄密、希庵、前妙心寺住持英朝東陽、手沢の五山版勅修百丈清規の講本に、玄訥景堂、の点を移写す、尋で、玄密、同本を伊那郡開善寺住持宗賑速伝、に譲与せんことを遺嘱す、 玄密、英朝自筆の語録少林無孔笛を、宗賑に譲与せんことを遺嘱す、28
後土御門明応五年八月七日1496木曽義清、木曽定勝寺に太鼓を寄進す、 木曽義清並に同義元の書状29
後土御門明応五年一二月一三日1496諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、32
後土御門明応五年1496幕府、古心を諏訪郡安国寺住持となす、33
後土御門明応六年1497幕府、伊那郡開善寺前住持建仁寺禅居庵静光軒主明閦東牧、を建仁寺住持となす、35
後土御門明応六年1497木曽長福寺の徒天沢、淨智寺に掛搭して、後堂首座を勤む、 英璵、信濃の僧、建長寺の徒三友に、道号及びその頌を与へ、信濃の僧某の帰郷に詩を餞す、37
後土御門明応六年1497是より先、武蔵岩槻正等、その所居の斎の図を画かしめ、建長寺の諸尊宿をして題詩せしむ、是月、相摸禅興寺明月院塔主英璵、玉隠、その子顕泰の請に応じて、その詩画軸に序す、38
後土御門明応六年七月一日1497諏訪社下社大祝金刺昌春、同社に神鏡を寄進す、41
後土御門明応六年八月二七日1497高梨政盛、同高秀をして高井郡計見郷内の地を安堵せしむ、41
後土御門明応六年一〇月一三日1497紀伊興国寺西方寺、住持得胤覚窓、・同寺思遠庵塔主善甫、同寺開山覚心無本、心地房、の二百年忌仏事を営み、前建仁寺住持同寺興禅護国院塔主竜統正宗、を請じて、陞座説法せしむ、 美濃正法寺、覚心二百年忌仏事を修す42
後土御門明応六年一一月一一日1497諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、51
後土御門明応六年一一月一二日1497諏訪小太郎の子頼員、諏訪社上社大祝の位に即く、52
後土御門明応七年1498周防保寿寺の徒守竹、帰郷せんとす、建長・円覚両寺の諸尊宿、詩を作りて之に餞す、建長寺西来院塔主英璵、玉隠、その請に応じて、その詩軸に序す、53
後土御門明応七年四月一八日1498本願寺光兼、実如、阿弥陀如来画像に裏書を書し、之を高井郡普願寺住持某に授く、普願寺住持某、光兼より法名を授けらる、56
後土御門明応七年八月一日1498筑摩郡広沢寺住持玄固、雪江、越前慈眼寺住持となつて、同寺に赴任し、正旭、南洲、広沢寺に継席住持す、57
後土御門明応七年1498相摸禅興寺明月院塔主英璵、玉隠、柿本人麻呂の像に賛す、58
後土御門明応七年一一月二四日1498諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、60
後土御門明応七年1498相摸禅興寺明月院塔主英璵、玉隠、同国清淨光寺其阿弥陀仏の請により、近江小倉実澄の其阿に与へたる詩を和韻す、62
後土御門明応八年1499諏訪社下社大祝金刺昌春、諏訪郡山田の地を伊勢大神宮に寄進す、63
後土御門明応八年1499相摸清淨光寺其阿弥陀仏、同国禅興寺明月院塔主英璵玉隠、に数珠を贈る、英璵、その偈及び序を作る、64
後土御門明応八年三月三日1499相摸禅興寺明月院塔主英璵、玉隠、薩摩大願寺の徒璵上人の請に応じて、詩を作りて、その帰郷に餞す、66
後土御門明応八年三月二六日1499伊那郡文永寺僧宗詢、牛王根本印明を書写す、66
後土御門明応八年1499建仁寺大昌院塔主竜沢、天隠、法燈無本覚心、派下の諸尊宿の請に応じ、祖円規庵、の紀伊興国寺西方寺、の覚心の塔思遠庵拝塔の時作りし偈を和韻す、67
後土御門明応八年八月一日1499是より先、幕府、相摸禅興寺明月院塔主英璵玉隠、を建長寺住持となす、是日、英璵、入院す、68
後土御門明応八年八月二八日1499後土御門天皇、信濃の僧前寿福寺住持祖杲旭海、に正続朝宗禅師の号を諡す、81
後土御門明応八年九月六日1499上杉朝良、相摸建徳寺に祖父持朝の三十三回忌仏事を行ひ、建長寺住持英璵玉隠、を請じて、陞座説法せしむ、85
後土御門明応八年九月六日1499松本市瀬黒王徳寺の不動明王像、成る、95
後土御門明応八年1499建仁寺大昌院塔主竜沢、天隠、同寺禅居庵永元軒主清光月甫、の請に応じて、伊那郡開善寺前住持清淳大翁、の頂相に賛す、95
後土御門明応八年1499是より先、円覚寺の徒皓采、建長寺宝珠庵の徒祥啓、賢江、をして、その所居の斎を画かしめ、建長・円覚両寺の諸尊宿をして、題詩せしむ、是月、建長寺住持英璵、玉隠、その詩画軸に序す、97