長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻十 (200頁~)
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後柏原
永正三年
1506
小諸市平原の阿弥陀如来廿五菩薩来迎縁起勧進帳、成る、
200
後柏原
永正三年四月一〇日
1506
知久頼為の三年忌、是より先、その子某、仏事を伊那郡広福寺に修し、同郡蟠竜院住持瑞秀雪岫、をして拈香せしむ、
204
後柏原
永正三年
1506
諏訪社下社造宮あり、小県郡常田庄等、同社春宮御柱造宮料を課せらる、
206
後柏原
永正三年六月二〇日
1506
伊那郡了聖寺の徒慶祐、その亡母妙高松岳、禅尼の三十三年忌仏事を修し、同郡蟠竜院住持瑞秀雪岫、をして拈香せしむ、
210
後柏原
永正三年八月二八日
1506
鎌倉府執事上杉顕定、可諄、その亡母妙皓大姉月山、の七周忌仏事を、上野海竜寺に行ひ、相摸禅興寺明月院塔主英璵玉隠、をして、陞座説法せしむ、
212
後柏原
永正三年九月二一日
1506
是より先、伊豆伊勢宗瑞、早雲庵、駿河守護今川氏親と共に、三河戸田憲光を援けんがため、牧野成時を同国今橋城に攻む、是日、宗瑞、小笠原定基に戦況を報ず、
221
後柏原
永正三年九月二七日
1506
是より先、伊勢宗瑞、使者大井宗菊を遣はし、小笠原定基に協力を求めんとす、宗菊、関春光の許にあり、是日、宗菊、状を以て、旨を定基に通ず、
223
後柏原
永正三年一〇月一九日
1506
是より先、小笠原定基、伊勢宗瑞の請により、三河横林に兵を出す、是日、宗瑞、之を謝し、併せて今橋の戦況を報ず、 伊勢宗瑞、小笠原定基に新年の祝儀を述べ、併せて定基方の戦況を問ふ、
224
後柏原
永正三年一〇月一九日
1506
三条西実隆、高梨政盛に音信を通ず、
228
後柏原
永正三年
1506
建仁寺清住院塔主弘稽、古桂、信濃の僧木曽定勝寺の徒聖贇の請に応じて、道号の二大字及びその頌を与ふ、
228
後柏原
永正三年一一月二八日
1506
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
230
後柏原
永正三年閏一一月八日
1506
美濃土岐尚益、小笠原定基に佐竹基房のことを謝す、尋で、基房の父同国佐竹宗三、また之を謝す、 土岐尚益、小笠原定基の太刀等を贈れるを謝す、
231
後柏原
永正三年閏一一月二四日
1506
下伊那郡富草村八幡神社の神像、成る、
234
後柏原
永正三年一二月一八日
1506
是より先、宗清、南浦、佐久郡に城光院を開創す、是日、宗清、寂す、
234
後柏原
永正三年
1506
小笠原定基、亡父家長の十七周忌仏事を修し、伊那郡蟠竜院住持瑞秀雪岫、をして拈香せしむ、
235
後柏原
永正四年二月四日
1507
安曇郡穂高社、同社式年造宮にあたり、同郡諸郷の所役を注す、
237
後柏原
永正四年二月一三日
1507
木曽定勝寺住持慧珍、貴山、寂す、
240
後柏原
永正四年二月一四日
1507
是より先、甲斐武田信縄、諏訪社上社の玉会並に守符を贈れるを謝す、是日、信縄、卒す、
241
後柏原
永正四年二月二八日
1507
祝家吉、埴科郡大日寺の大日如来像並に阿弥陀如来像・弥勒菩薩像等を造立し、是日、開眼供養を行ふ、
242
後柏原
永正四年
1507
建仁寺祥雲院塔主以信、義海、木曽定勝寺住持聖贇玉林、の請に応じて、その師祖同寺前住持恵厳香林、の頂相に賛す、
245
後柏原
永正四年
1507
木曽御岳権現の神主某、散供祝詞を書す、
246
後柏原
永正四年八月一六日
1507
佐竹宗三、小笠原定基に京都の変事を報じ、併せて子基房の修行を依頼す、また、小笠原貞朝にも、基房のことを依頼す、
248
後柏原
永正四年一〇月一七日
1507
駿河観勝院住持玄俊、雲鷹、小県郡定津院住持となる、
252
後柏原
永正四年
1507
諏訪湖上に、諏訪大明神の御渡なし、尋で、永正十一年に至るまで、御渡なし、
253
後柏原
永正五年四月一五日
1508
佐久郡自成寺住持麟英、俊庵、同寺に壁書を掲ぐ、
253
後柏原
永正五年四月三〇日
1508
伊那郡文永寺僧宗詢、三条西実隆に音信を通ず、
255
後柏原
永正五年五月二〇日
1508
善光寺僧戒順、和泉堺にて新造せる善光寺前立阿弥陀如来像を信濃に送らんとし、近江坂本に至り、同像を後柏原天皇の叡覧に供さんことを請ふ、是日、天皇、之を禁中に安置せしむ、
256
後柏原
永正五年
1508
相摸建長寺住持英璵、玉隠、南禅寺の徒瑞元乾翁、の請に応じて、之に道号を授け、その説を作る、
258
後柏原
永正五年
1508
前大徳寺住持宗珉、玉浦、信濃の僧瑞郁文叔、を印可す、
259
後柏原
永正五年一二月二五日
1508
是より先、大内義興、小笠原定基に馬を所望す、是日、佐竹宗三、重ねて之を報じ、併せて佐竹基房の扶助を定基に依頼す、 上野元治、定基の馬を送れるを謝す、
260
後柏原
永正六年三月一四日
1509
幕府、佐竹基房に命じ、小笠原定基をして、忠節を尽さしむ、
262
後柏原
永正六年三月一八日
1509
石見小笠原長隆、京都より、小笠原定基に音信を通ず、尋で、また通ず、
263
後柏原
永正六年三月二七日
1509
幕府犬追物、小笠原六郎等、射手を勤む、 小笠原六郎、幕府犬追物の射手を勤む、
266
後柏原
永正六年四月三日
1509
信濃の僧大弐宗印、山城醍醐寺理性院に於て得度す、
270
後柏原
永正六年四月一六日
1509
前南禅寺住持梵寿、叔彭、寂す、相摸禅興寺明月院塔主英璵、玉隠、祭文を作る、
271
後柏原
永正六年五月三日
1509
将軍足利義尹、上杉顕定・同憲房をして、佐久郡伴野貞憲と大井行満との争を和解せしむ、
272
後柏原
永正六年五月四日
1509
伊那郡文永寺僧宗詢、寂す、尋で、山城醍醐寺五智院宗典、信濃に下向す、 宗詢、諸聖教を書写す、
273
後柏原
永正六年六月二一日
1509
世尊寺行季、信濃の人某の請に依り、善明院の額を書す、
281
後柏原
永正六年六月二二日
1509
伊那郡文永寺僧仙耀、その師宗詢の尽七日忌の供養を修す、
282
後柏原
永正六年七月二八日
1509
是より先、関東管領上杉憲房、越後守護上杉定実・長尾為景を討たんとして、越後に攻入る、高梨政盛等、為景に応じて、越後妻有庄に憲房の軍を破る、是日、憲房の父可諄、顕定、信濃衆を攻め、之を水内郡尾崎庄に敗退せしむ、
283
後柏原
永正六年七月二八日
1509
山城醍醐寺理性院宗典、伊那郡文永寺に於て、太元伝法大事を書写す、
286
後柏原
永正六年八月一三日
1509
伊那郡文永寺僧仙耀、その師宗詢の百箇日法会を修す、
287
後柏原
永正六年
1509
飯田市白山社奥社本殿、成る、
289
後柏原
永正六年閏八月九日
1509
山城醍醐寺理性院宗典、伊那郡文永寺に於て、表白文を書す、
289
後柏原
永正六年九月二八日
1509
足利政氏、相摸禅興寺を再興せんとし、寺領を同寺に還附し、同寺明月院塔主英璵、玉隠、を大勧進職となす、
289
後柏原
永正六年一〇月六日
1509
越後守護上杉定実、越中より築地忠基に書を遺り、信濃・越中等の諸士と議し、越後に帰国すべき計を報じ、併せて、忠基の合力を請ふ、
290
後柏原
永正六年一〇月一四日
1509
安曇郡大沢寺住持禅亨、乾叟、寂す、
291
後柏原
永正六年一〇月二六日
1509
信濃の人麻生某、使を京都に遣り、将軍足利義尹の復職を賀す、義尹、書を遺りて、之に答へ、併せて敵に備ふべきを命ず、
296
後柏原
永正六年一一月九日
1509
諏訪郡の僧神応・紹憲等、千仏名経を書写して、同郡仏法寺常住に備ふ、
297
後柏原
永正六年
1509
小県郡定津院住持玄俊、雲鷹、能登総持寺輪住服勤のため、同寺に赴任す、
298
後柏原
永正七年四月一〇日
1510
知久頼尚、亡父同頼為の七年忌仏事を伊那郡法全寺に修し、瑞秀雪岫、をして拈香せしむ、
299