長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻十 (300頁~)
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後柏原
永正七年六月一二日
1510
是より先、高梨政盛等、上杉定実・長尾為景に応じて越後に入り、上杉可諄顕定、の兵と戦ひて敗る、是日、政盛、可諄の子憲房を同国椎屋に攻めて、之を妻有庄に敗走せしむ、
301
後柏原
永正七年六月一二日
1510
幕府犬追物、小笠原六郎等、射手を勤む、
306
後柏原
永正七年六月二〇日
1510
長尾為景・高梨政盛、上杉可諄顕定、を越後長森原に攻めて、之を敗死せしむ、
308
後柏原
永正七年七月一日
1510
是より先、高梨政盛等、長尾為景を援けて、上杉可諄顕定、の残党を越後に追伐す、是日、為景、伊達尚宗に戦況を報じ、併せて、その合力を請ふ、
312
後柏原
永正七年七月二三日
1510
三条西実隆、諏訪信祐の請に依り、諏訪社法楽三十首和歌の題を書して贈る、
312
後柏原
永正七年八月三日
1510
関東管領上杉憲房、上乗院公済を介し、長尾為景・高梨政盛等の追伐を幕府に請ふ、
313
後柏原
永正七年九月二七日
1510
坂西頼国、その私第に亡父の十七年忌仏事を修し、伊那郡蟠竜院住持瑞秀雪岫、をして、拈香せしむ、
314
後柏原
永正七年一〇月一四日
1510
醍醐寺五智院宗典、伊那郡文永寺より上洛す、
316
後柏原
永正七年一二月三〇日
1510
建仁寺住持寿桂、月舟、除夜小参説法す、同寺禅居庵塔主全竜、梅渚、後堂首座として、之を助化す、寿桂、謝語を述べて、その労を犒ふ、
316
後柏原
永正八年正月八日
1511
伊那郡文永寺僧厳詢、禁中太元護摩修法の伴僧を勤む、
318
後柏原
永正八年二月八日
1511
本願寺光兼、実如、阿弥陀如来・親鸞画像に裏書を書し、之を埴科郡本誓寺に与ふ、
319
後柏原
永正八年二月一七日
1511
水内郡長沼淨興寺僧了周、寂す、 光兼、了周の病むに依り、書を遺る、
320
後柏原
永正八年三月二四日
1511
更級郡興禅寺・高井郡興国寺等開山、佐久郡竜雲寺中興山祥貞、天英、下野成高寺に寂す、
321
後柏原
永正八年三月二六日
1511
諏訪満継、伊那郡鉾持社祢宜某に所役を免ず、
330
後柏原
永正八年五月二五日
1511
長野市福生院の五輪塔、成る、 上水内郡牟礼村長谷寺所蔵の五輪塔銘、
331
後柏原
永正八年八月二三日
1511
伊那郡松尾の小笠原定基、卒す、 小笠原文書及び興禅寺文章の中、定基に関する文章
331
後柏原
永正八年九月二三日
1511
筑摩郡広沢寺・伊那郡竜勝寺住持玄固、雪江、寂す、 玄固の書状
341
後柏原
永正八年一二月一三日
1511
幕府、信濃の僧建仁寺青松庵の徒徳益謙室、を、伊那郡建福寺住持となす、
343
後柏原
永正八年一二月二六日
1511
是より先、駿河今川氏親、将軍足利義尹に馬を献ぜんとし、遠江の戦乱のため路次通ぜざるを以て、使者をして、信濃・三河を経て上洛せしむ、是日、義尹、氏親の馬を献ぜるを謝す、
345
後柏原
永正九年正月二七日
1512
越後守護上杉定実、宇佐美房忠を信濃に遣はし、信濃調略の事に当らしめんとす、
347
後柏原
永正九年三月八日
1512
幕府、建仁寺禅居庵塔主全竜梅渚、を能登安国寺住持となす、 全竜の事蹟
348
後柏原
永正九年三月九日
1512
筑摩郡法善寺開山宗俊、賢甫、同寺出家略作法を書す、
351
後柏原
永正九年四月二三日
1512
小県郡定津院住持宗穆、悦堂、寂す、
353
後柏原
永正九年一〇月二三日
1512
伴野貞守、釈迦如来像を造立す、
355
後柏原
永正九年一一月一五日
1512
建仁寺住持寿桂、月舟、上堂説法す、信濃の僧瑞嘉、瑞芝、維那として、之を助化す、寿桂、謝語を述べて、その労を犒ふ、
356
後柏原
永正九年一二月二六日
1512
高梨政盛、夜交景国をして、その所領を安堵せしむ、 政盛、長尾能景より書状を受く、
358
後柏原
永正九年一二月二六日
1512
高梨澄頼、同孫次郎をして高井郡中村郷を安堵せしむ、
360
後柏原
永正九年
1512
幕府、建仁寺祥雲院塔主以信義海、を同寺住持となす、尋で、以信、入院す、
361
後柏原
永正一〇年三月七日
1513
是より先、遠江大河内貞綱、尾張守護斯波義達の援を得て、信濃・三河・尾張の兵を語らひ、遠江深岳城に篭る、是日、駿河守護今川氏親、之を攻めて陥る、
363
後柏原
永正一〇年七月二四日
1513
是より先、越後守護代長尾為景、同国守護上杉定実に叛す、仍りて、為景、信濃嶋津貞忠に同国の情勢を問ふ、是日、貞忠、之に答ふ、
365
後柏原
永正一〇年八月五日
1513
嶋津貞忠等信濃の諸士、越後守護上杉定実を援けんがため、越後に乱入せんとす、是日、同国守護代長尾為景、同房長に命じ、揚河北衆をして之に備へしむ、
369
後柏原
永正一〇年九月一日
1513
安曇郡泉福寺の金剛力士像の修理、成る、
370
後柏原
永正一〇年一〇月二二日
1513
諏訪満継、伊那郡鉾持社祢宜等をして、同心して神事を勤めしむ、
373
後柏原
永正一〇年一〇月二八日
1513
是より先、越後守護代長尾為景、同国守護上杉定実を越後府中の自邸に移し、その党を攻む、高梨澄頼等、為景に応じ、長峯原に陣す、是日、為景、之を同房景に報ず、
373
後柏原
永正一〇年一二月七日
1513
某、佐久郡某社に神領を寄進す、
374
後柏原
永正一一年六月一三日
1514
是より先、関東管領上杉憲定、信濃勢と共に、宇佐美房忠を援けて、越後守護代長尾為景を攻めんとするに依り、為景、房忠を攻めて自殺せしむ、是日、憲定、之を伊達稙宗に報ず、
375
後柏原
永正一一年
1514
佐久郡城光院の宝篋印塔、成る、 城光院の宝篋印塔銘
376
後柏原
永正一一年七月二二日
1514
小諸市大久保十二社の社殿、成る、
377
後柏原
永正一一年八月一九日
1514
安曇郡観勝院開山、同郡大沢寺住持玄策、功巌、寂す、
378
後柏原
永正一一年八月二八日
1514
諏訪頼満の子、頼熈、諏訪社上社大祝の位に即く、
380
後柏原
永正一一年一〇月一七日
1514
小県郡定津院住持玄俊、雲鷹、同寺開山宗英拈笑、の三十三回忌仏事を修す、
381
後柏原
永正一一年一一月七日
1514
松本市筑摩神社の梵鐘、成る、
381
後柏原
永正一二年正月二五日
1515
本願寺光兼、実如、阿弥陀如来画像に裏書を書し、之を高井郡光教寺実譓に授く、
383
後柏原
永正一二年三月三日
1515
是より先、美濃竜泰寺住持祖圭、大質、安曇郡大沢寺に住す、是日、祖圭、寂す、
384
後柏原
永正一二年四月四日
1515
伊那郡文永寺僧仙耀、上洛す、
386
後柏原
永正一二年六月三日
1515
小笠原貞朝、卒す、
387
後柏原
永正一二年六月一九日
1515
信濃の僧、能登総持寺前住持駿河大祥寺開山正順、行之、寂す、
390
後柏原
永正一二年七月二四日
1515
建長寺住持英璵、玉隠、同寺開山塔西来庵修造勧進状の草案を作る、
396
後柏原
永正一二年
1515
後柏原天皇、瑞郁文叔、を山城妙心寺住持となす、
398