長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻十二 (1頁~)
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後奈良
天文二三年正月一日
1554
諏訪社上社、神使御頭を定む、
1
後奈良
天文二三年正月八日
1554
伊那郡文永寺宗然・同厳詢禁中太元護摩に参仕す、
2
後奈良
天文二三年正月二〇日
1554
武田晴信、山家松寿をして、その父左馬允の所領筑摩郡大村の地を安堵せしむ、
2
後奈良
天文二三年二月一二日
1554
後奈良天皇、信濃の僧玄瑠宗瑠、南豊、を妙心寺住持となす、是日、玄瑠、入院す、
3
後奈良
天文二三年二月二五日
1554
筑摩郡青柳某、同郡麻績神明宮神主等の所領を注す、
9
後奈良
天文二三年
1554
伊那郡文永寺宗然、山城醍醐寺中坊の弟子少納言の入壇するにあたり、誦経を勤む、
12
後奈良
天文二三年三月一二日
1554
武田晴信、大日方美作守等に令して、その領民の移住を禁ず、
12
後奈良
天文二三年三月一三日
1554
是より先、高井郡笠原本誓寺超賢、長尾景虎の上洛に際し、北陸の通路の便を図る、是日、景虎、超賢にその労を謝し、併せて越後移住を勤む、 本誓寺の由来記
13
後奈良
天文二三年三月一四日
1554
筑摩郡青柳小四郎、所領目録を注し、同近江守に差出す、
18
後奈良
天文二三年三月二〇日
1554
諏訪社上社、秋宮外の籬拾壱間の造宮料を、水内郡落合領内の諸郷に課す、
19
後奈良
天文二三年三月二〇日
1554
小県郡福沢昌景、紀伊高野山蓮華定院に、戦乱により、賛銭弁済の遅怠せるを弁疏す、 依田良存、蓮華定院に子息息災の祈念を依頼す、 良存、生島足島社に作毛を寄進す、
21
後奈良
天文二三年
1554
佐久郡龍雲寺住持清嫩、桂室、同寺歴代譜を書す、
24
後奈良
天文二三年四月八日
1554
佐久郡龍雲寺孝順、清〓に仏祖正伝菩薩戒作法を伝ふ、
24
後奈良
天文二三年
1554
前妙心寺住持紹化、南溟、信濃の僧玄瑠南豊、の請に応じて、伊那郡宝寿寺開山竹隠諱闕く、の頂相に賛す、
25
後奈良
天文二三年六月一一日
1554
武田晴信、臼田六郎右衛門尉に、佐久郡岩村田の地を宛行ふ、
26
後奈良
天文二三年六月一二日
1554
木曽義在・同義康父子、木曽黒沢安気大菩薩に、鰐口を寄進す、
27
後奈良
天文二三年
1554
伊那郡長久寺住持興春、東渓、同郡興禅寺住持玄瑠南豊、の請に応じて、同郡宝寿寺開山竹隠の頂相に賛す、
27
後奈良
天文二三年七月二四日
1554
武田晴信、兵を信濃に進む、尋いで、晴信、知久頼元を伊那郡知久郷に攻めて破り、頼元父子等を甲斐大原嶋に流す、
29
後奈良
天文二三年
1554
相国寺住持集尭、仁如、越前雲龍寺の徒宗寅春岳、の請に応じて、その師同寺住持東巴月環、の道号の頌をつくる、
34
後奈良
天文二三年八月六日
1554
武田晴信の子義信、佐久郡に攻め入り、同郡の諸城相ついで陥る、
35
後奈良
天文二三年八月二二日
1554
諏訪郡仏法寺尊朝、聖教を書写し、その伝授を受く、 尊朝、聖教を書写す、 智積院僧正某、仏法寺に書を送る、
35
後奈良
天文二三年九月二二日
1554
武田晴信、大日方主税助の協力を賞し、尋いで、また、明春の信濃奥郡への出陣に備へしむ、 武田晴信、主税助の年賀に答謝す、
42
後奈良
天文二三年九月三〇日
1554
是より先、武田晴信、伊那郡攻略のため、御謝山大明神に武運長久を祈る、攻略成れるを以つて、是日、晴信、同社に神領を寄進す、
44
後奈良
天文二三年一〇月二五日
1554
武田晴信、大日方上総助の請により、二木重高一族の還住を赦す、
45
後奈良
天文二三年一一月一日
1554
伊那郡文永寺宗然、山城醍醐寺密教院の伝法潅頂にあたり、職衆として参仕す、
46
後奈良
天文二三年一一月八日
1554
武田晴信、大須賀久兵衛尉をして、小県郡塩尻南方の地を安堵せしむ、
46
後奈良
天文二三年一二月四日
1554
相国寺雲頂院雲沢軒主集尭、仁如、筑前聖福寺住持某竜華老人、集尭に贈りし詩の韻を和して、餞偈をつくり、使僧珍蔵主の帰国を送る、
47
後奈良
天文二三年一二月七日
1554
諏訪湖上に、諏訪大名神御渡あり、尋いで、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
48
後奈良
天文二三年一二月七日
1554
武田晴信、川手右衛門尉の母尼に、伊那郡長岡の地を宛行ふ、
49
後奈良
天文二三年一二月一四日
1554
某、安曇郡丹生子・大町関の代物を受取る、
50
後奈良
天文二三年一二月二〇日
1554
武田晴信、下条兵庫助をして、伊那郡知久平の地を所務せしむ、
51
後奈良
天文二三年
1554
某、高井郡温泉寺を開創し、佐久郡貞祥寺・埴科郡禅透院開山徳忠節香、を請じて開山となす、尋いで、龍鶴、松山、貞祥寺に住し、全林、旃室、禅透院に住す、
51
後奈良
天文二三年
1554
小県郡定津院住持舜栄、王室、病む、依つて、その師同院前住甲斐慧運院住持宗岳、雪田、之に替りて相摸最乗寺の輪住を勤仕す、
53
後奈良
弘治元年正月四日
1555
知久四郎左衛門尉等、窂浪して、山城醍醐寺三宝院に逗留し、是日、京都に赴く、
55
後奈良
弘治元年正月八日
1555
伊那郡文永寺宗然・同厳詢、禁中太元護摩に参仕す、
55
後奈良
弘治元年正月三〇日
1555
是より先、筑摩郡三村某、武田晴信の将馬場信房を同郡深志城に攻む、是日、二木重高、之を援けんとして、兵を出す、
55
後奈良
弘治元年
1555
相国寺住持集尭、仁如、同寺大智院広徳軒主妙安惟高、の試筆十題の詩の韻を和す、
57
後奈良
弘治元年二月一二日
1555
安曇郡穂高社、同社式年造宮にあたり、同郡諸郷の所役を注す、
59
後奈良
弘治元年二月一四日
1555
武田晴信、諏訪郡八剣社に、同郡上原の地を寄進す、
66
後奈良
弘治元年三月四日
1555
武田晴信、諏訪社上社の神鷹・神馬の分配の法を定む、
67
後奈良
弘治元年三月一二日
1555
武田晴信、筑摩郡慶弘寺に、制札を掲ぐ、
68
後奈良
弘治元年三月二一日
1555
武田晴信、大日方主税助の戦功を賞す、
68
後奈良
弘治元年
1555
佐久郡龍雲寺住持清嫩、桂室、同寺の置文を書す、
70
後奈良
弘治元年四月二五日
1555
武田晴信、内田監物をして更級郡佐野山に在城せしむ、
71
後奈良
弘治元年
1555
全林、旃室、佐久郡自成寺を中興し、その師徳忠節香、を開山に勧請す、
71
後奈良
弘治元年五月二八日
1555
知久頼元等、甲斐船津に於いて害せらる、
72
後奈良
弘治元年七月七日
1555
伊那郡文永寺厳詢、山城醍醐寺より、信濃に下国す、
73
後奈良
弘治元年七月一九日
1555
是より先、長尾景虎、村上義清・高梨政頼等の請に依り武田晴信を討たんとして、善光寺に兵を進む、晴信、また、更級郡大塚に陣す、是日、両軍、更級郡川中島に戦ふ、
73
後奈良
弘治元年九月一〇日
1555
武田晴信、諏訪社上社神長守矢頼真に、戦勝祈願を依頼す、
78
後奈良
弘治元年九月二五日
1555
武田晴信、諏訪社上社をして、水内郡漆田郷内の同社領を安堵せしむ、
79
後奈良
弘治元年一〇月二日
1555
伊那郡文永寺厳詢、入壇のため山城醍醐寺に至る、
80
後奈良
弘治元年一〇月五日
1555
武田晴信、小嶋修理亮等に高井郡高梨の地を宛行ふ、
80
後奈良
弘治元年一〇月九日
1555
柴河内守、伊那郡大手大明神宝殿を建立す、
81
後奈良
弘治元年一〇月一二日
1555
東福寺住持守仙、彭叔、寂す、相国寺大智院広徳軒主妙安、惟高、詩をつくりて之を悼む、相国寺住持集尭仁如、等、その韻を和す、
81
後奈良
弘治元年一〇月二三日
1555
武田晴信、大須賀久兵衛の忠節を賞す、
83
後奈良
弘治元年
1555
長尾景虎、信濃在陣の諸将に誓紙を徴す、
83
後奈良
弘治元年閏一〇月二日
1555
武田晴信、大日方山城守・春日駿河守の俵物の諸関通行を許す、
84
後奈良
弘治元年閏一〇月一五日
1555
武田晴信、駿河今川義元の斡旋により、長尾宗心景虎、と和し、互に兵を引く、 今川義元、晴信を援けんがため、信濃に兵を出す、
85
後奈良
弘治元年閏一〇月一七日
1555
武田晴信、某をして、筑摩郡八幡宮別当職を安堵せしむ、
88
後奈良
弘治元年一二月二八日
1555
諏訪湖上凝結せざるにより、諏訪大明神御渡なし、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
89
後奈良
弘治元年
1555
相国寺住持集尭、仁如、東福寺龍吟庵塔主龍喜煕春、の請に応じて、梵綱大用、に道号を与へ、その頌をつくる、
90
後奈良
弘治二年正月三日
1556
武田晴信、甲斐浅間社並びに同国美和社に、筑摩郡小松郷の地を寄進す、
91
後奈良
弘治二年正月八日
1556
伊那郡文永寺宗然・同厳詢、禁中太元護摩に参仕す、
92
後奈良
弘治二年正月一五日
1556
元宵、相国寺住持集尭、仁如、上堂説法す、
92
後奈良
弘治二年正月二五日
1556
某、佐久郡松原社に神馬銭を渡す、
94
後奈良
弘治二年
1556
相国寺住持集尭、仁如、同寺大智院広徳軒の詩会に列す、
94
後奈良
弘治二年三月一一日
1556
武田晴信、水内郡静松寺住持をして、落合一族の忠節を賞せしむ、
95
後奈良
弘治二年三月一七日
1556
武田晴信、諏訪郡三精寺をして、寺領の山を安堵せしむ、
96
後奈良
弘治二年三月一九日
1556
相国寺住持集尭、仁如、東福寺永明院の徒永哲惟杏、の請に応じて、天神の像に賛す、
96
後奈良
弘治二年四月六日
1556
更級郡西明寺秀弘、山城醍醐寺御影堂に、上米分を寄進す、
97
後奈良
弘治二年四月二一日
1556
高野山定慶院、故諏訪頼継の室のために逆修供養を行ふ、
98
後奈良
弘治二年五月三日
1556
是より先、東福寺永明院の徒永哲、惟杏、五山諸尊宿の古文真宝の注釈を集成編輯す、是日、相国寺雲頂院雲沢軒主集尭、仁如、永哲の請に応じて、之に跋す、
98
後奈良
弘治二年五月一二日
1556
武田晴信、香坂筑前守に、埴科郡八郎丸郷内の地を宛行ふ、
99