長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻十二 (300頁~)
1頁~
100頁~
200頁~
300頁~
400頁~
554頁~
「信濃史料」巻別収録年代に戻る
・ 綱文(記事)をクリックすると、綱文とその出典を掲載した画面が表示されます。
天皇
年月日
西暦
記事
頁
正親町
永禄三年六月一三日
1560
木曽長政、御岳権現に百箇日精進を行ひ、是日、成就す、
300
正親町
永禄三年六月一五日
1560
武田信玄、香坂筑前守に、更級郡内横田の地を宛行ふ、
301
正親町
永禄三年六月二三日
1560
是より先、僧善海、佐久郡津金寺の本堂を再興す、是日、寂す、
301
正親町
永禄三年
1560
筑摩郡千鹿頭社神主志賀木工助、同社の神秘を書す、
302
正親町
永禄三年七月二七日
1560
下伊那郡喬木村韓郷神社旧蔵の板絵、成る、
303
正親町
永禄三年
1560
相国寺住持集尭、仁如、筑前聖福寺の徒玄旦希周、の請に応じ、その詩藁の後に跋す、
304
正親町
永禄三年八月四日
1560
長尾景虎、関東出陣にあたり、同政景をして春日山を守らしめ、緊急の際は信濃衆の合力を求むべきを指示す、
305
正親町
永禄三年八月一〇日
1560
武田信廉、伊那郡小井弖藤四郎に、所領を宛行ふ、
306
正親町
永禄三年八月二五日
1560
長尾景虎、関東出陣にあたり、留守の諸将の掟を定め、高梨政頼に輪番合力して信濃を鎮定すべきを命ず、 高梨氏に属せし諸士注文及び城門の修築に関する書上
307
正親町
永禄三年
1560
山城聖護院道澄、佐久郡不動院秀栄を法印に任ず、
311
正親町
永禄三年
1560
諏訪郡神宮寺の僧周仁、紀伊根来寺に於いて、百法問答補闕抄を書写し、是月、その功を終ふ、
312
正親町
永禄三年
1560
幕府、前相国寺住持同寺雲頂院塔主集尭仁如、を同寺鹿苑院塔主となし、僧事を録せしむ、 集尭、水内郡大安寺住持公帳のことに就いて、相国寺鹿苑院蔭凉軒主景俊継之、に、幕府への披露を請ふ、
314
正親町
永禄三年
1560
武田信玄、信濃奥郡に攻入らんとし、戦勝を佐久郡松原社に祈る、
315
正親町
永禄三年一〇月二二日
1560
武田信玄、大井左馬允をして、小諸城定普請及び小諸より出陣の際の兵粮運送を努めしむ、
316
正親町
永禄三年一一月一二日
1560
相国寺鹿苑院塔主集尭、仁如、同寺法堂造営料足のための建仁寺坐公文を付与すべき候補者として、僧祖籌先登、を書立てて、幕府に呈す、 集尭、同じく南禅寺坐公文付与の候補者として、再び祖籌を書立つ、
317
正親町
永禄三年一二月二七日
1560
僧深忠、伊那郡文永寺最勝坊に於いて、両界念誦次第私記を書写す、
318
正親町
永禄三年
1560
佐久郡自成寺住持全林、旃室、埴科郡禅透院に再住す、
320
正親町
永禄三年
1560
相国寺住持集尭、仁如、播磨室津の医師村尾久以景賛、の請に応じて、その著書鑑効秘要方に跋す、
320
正親町
永禄四年正月八日
1561
伊那郡文永寺宗然、禁中太元護摩に参仕す、
323
正親町
永禄四年正月一三日
1561
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋いで、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
323
正親町
永禄四年正月一七日
1561
木曽義康、木曽定勝寺をして、寺領野尻郷林在家を安堵せしむ、 義康の書状
324
正親町
永禄四年正月二七日
1561
武田信玄、原彦八郎に太刀を与ふ、
325
正親町
永禄四年二月六日
1561
長尾景虎の将直江実綱、関東出陣に際し、書を高梨政頼に送りて、留守中の警備を依頼す、 桃井義孝、高梨政頼に太刀を贈り、年賀を祝す、 高梨氏吉書案
325
正親町
永禄四年二月六日
1561
武田信玄、小井弖某を左衛門尉に推挙す、
329
正親町
永禄四年二月一二日
1561
安曇郡穂高社、同社式年造宮にあたり、同郡諸郷の所役を注す、
330
正親町
永禄四年二月一四日
1561
武田信玄、諏訪社上社の宝鈴銭の事を定む、 信玄、穴山信君等を諏訪社上社に遺はし、宝鈴を鳴らさしむ、
338
正親町
永禄四年三月二日
1561
武田信玄、伊那郡小野社御柱の年たるにより、小野南方及び飯沼に普請役等を免ず、
339
正親町
永禄四年三月一三日
1561
諏訪社上社三月会、
340
正親町
永禄四年
1561
相国寺鹿苑院塔主集尭、仁如、山城三聖寺妙徳庵松月軒主聖澄月渓、の請に応じて、その軒名の記をつくる、
340
正親町
永禄四年
1561
長尾景虎、関東管領上杉憲政を奉じ、信濃・越後及び関東の将士を率ヰて、北条氏康を相摸小田原城に攻む、
344
正親町
永禄四年閏三月二日
1561
武田信玄、甲斐・信濃両国の軍勢の、吉田諏訪森の木を伐採することを禁ず、
346
正親町
永禄四年閏三月四日
1561
将軍足利義輝、長尾景虎をして、小笠原長時の信濃帰国を援けしむ、 長時の書状
346
正親町
永禄四年四月七日
1561
諏訪社上社四月会、
348
正親町
永禄四年四月一一日
1561
武田信玄の兵、碓氷峠を越へて上野松井田に陣を進め、尋いで、借宿に放火す、
348
正親町
永禄四年四月一五日
1561
結制、相国寺住持集尭、仁如、上堂説法す、
349
正親町
永禄四年四月一七日
1561
武田信玄、市川右馬助等に、佐久郡瀬戸内の地等を宛行ふ、
353
正親町
永禄四年五月六日
1561
相国寺開基足利義満忌日、同寺住持集尭、仁如、拈香仏事を勤む、
354
正親町
永禄四年五月九日
1561
武田信玄、筑摩郡長興寺に制札を掲ぐ、 信玄、長興寺をして、寺領を安堵せしむ、
355
正親町
永禄四年五月一〇日
1561
武田信玄、桃井六郎次郎に、筑摩郡内田及び二子の地を宛行ふ、
356
正親町
永禄四年五月二八日
1561
是より先、大森掃部助、武田信玄に属し、水内郡鰐ヶ嶽城を攻む、是日、信玄、掃部助をして、甲斐萬力郷の地を安堵せしむ、
357
正親町
永禄四年
1561
正親町天皇、光新春国、を妙心寺住持となす、相国寺住持集尭、仁如、同門の疏をつくりて、之を賀す、
358
正親町
永禄四年八月九日
1561
武田信玄、伊那郡高遠の新衆に、知行を宛行ひ、戦功を励ましむ、
360
正親町
永禄四年八月一二日
1561
前伊那郡瑞光院住持舜玉、光国、美濃明知安住寺に寂す、
362
正親町
永禄四年八月一九日
1561
泰宗、姓闕く、更級郡かはら大明神に、同郡小島田郷の地を寄進す、
363
正親町
永禄四年八月二六日
1561
木曽定勝寺聖贇、玉林、後住宗球天心、に什宝等を譲与す、
364
正親町
永禄四年八月二九日
1561
上杉政虎、景虎、信濃に出陣せんとし、後事を長尾政景に依頼す、
364
正親町
永禄四年九月一〇日
1561
上杉政虎、武田信玄の軍と更級郡川中島に戦ふ、信玄の弟信繁等討死す、
368
正親町
永禄四年一〇月三〇日
1561
武田信玄、山城清水寺成就院に伊那郡面木郷を寄進し、併せて上杉政虎の属城高井郡市川・水内郡野尻両城の落居をまつて、更に萬疋の地を寄進すべきを約す、
375
正親町
永禄四年一一月二日
1561
武田信玄、北条氏康を援けんがため、上野に兵を出さんとして、佐久郡松原社に戦勝を祈る、
376
正親町
永禄四年一一月七日
1561
冬至、相国寺住持集尭、仁如、上堂説法す、
378
正親町
永禄四年一一月二七日
1561
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋いで、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
382
正親町
永禄四年一二月二三日
1561
武田信玄、小県郡長窪・大門両宿をして、朱印状によらずして、伝馬を出すを禁ず、
383
正親町
永禄四年
1561
水内郡戸隠山中院某、修験問答を著す、
384