長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻十二 (100頁~)
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後奈良
弘治二年六月二日
1556
武田晴信、井上左衛門尉に、高井郡綿内領内の地を宛行ふ、 井上満直の書状
100
後奈良
弘治二年六月二八日
1556
武田晴信、大須賀久兵衛尉をして、その被官人の闕落せる者を召還さしむ、
101
後奈良
弘治二年七月一四日
1556
相国寺雲頂院雲沢軒主集尭、仁如、同寺住持妙安惟高、の韻を和して詩をつくり、同寺大智院広徳軒の徒瑞寿元亀、の薙髪を賀す、
102
後奈良
弘治二年七月一九日
1556
武田晴信、高井郡市川信房に、安田遺跡を宛行ふ、
103
後奈良
弘治二年七月一九日
1556
高梨政頼、今清水六郎次郎の戦功を賞す、
103
後奈良
弘治二年七月二九日
1556
武田晴信、諏訪郡神洞院に、以後五箇年間の寺領沽却を許す、
104
後奈良
弘治二年
1556
伊那郡光明寺住持仙智、伝授のため上洛し、山城醍醐寺に宿す、
106
後奈良
弘治二年八月一日
1556
仁科盛康、安曇郡仁科神明の式年造営を行ひ、是日、遷宮を行ふ、 仁科神明の作始の神事の次第
106
後奈良
弘治二年八月八日
1556
是より先、真田幸隆、埴科郡雨飾城を攻む、是日、武田晴信、幸隆にその攻略を促す、
108
後奈良
弘治二年九月一日
1556
僧正佶、楽翁、高井郡泉龍寺住持徳忠節香、に嗣法す、
109
後奈良
弘治二年
1556
相国寺住持集尭、仁如、送別の詩をつくりて、山城妙智院周良策彦、の甲斐恵林寺住持となつてその任に赴くに餞る、
112
後奈良
弘治二年一一月一二日
1556
冬至、相国寺秉払を行ふ、同寺住持集尭、仁如、その問答法語をつくる、
113
後奈良
弘治二年一一月二四日
1556
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
116
後奈良
弘治二年
1556
相国寺住持集尭、仁如、医師半井驢庵より、青甕の花瓶を贈らる、集尭、詩をつくりて、之を謝す、
117
後奈良
弘治二年
1556
相国寺住持集尭、仁如、明人詹僖の筆蹟に跋す、
118
後奈良
弘治二年一二月二三日
1556
武田晴信、岩波八郎右衛門尉に、諏訪郡金子・栗林の地を宛行ふ、
119
後奈良
弘治二年一二月二四日
1556
是より先、武田晴信、西条治部少輔をして、水内郡小田切方川北の本領を安堵せしむ、是日、晴信、更に更級郡原・今里の地を宛行ふ、 晴信、西条治部少輔の埴科郡東条城普請の功を犒ふ、
119
後奈良
弘治二年一二月二六日
1556
武田晴信、市河右馬助に、兵糧米の保管を保証す、 晴信の市河右馬助宛書状
121
後奈良
弘治二年
1556
伊那郡長石寺の聖観音菩薩像、成る、
123
後奈良
弘治二年
1556
駿河清見寺前住持宗淳、棘庵、再び山城妙心寺住持となり、入院す、相国寺住持集尭、仁如、同門の疏をつくりて之を賀す、
123
後奈良
弘治二年
1556
安曇郡満願寺僧某、同寺再興の勧進状を書す、
125
後奈良
弘治三年正月八日
1557
伊那郡文永寺宗然・同厳詢、禁中太元護摩に参仕す、
128
後奈良
弘治三年正月二〇日
1557
長尾景虎、更級郡八幡宮に武田晴信の討滅を祈願す、
128
後奈良
弘治三年正月二一日
1557
武田晴信、伊那郡諸郷に夫役を課す、
130
後奈良
弘治三年二月一五日
1557
武田晴信の兵、長尾景虎の属城水内郡葛山城を攻めて、之を陥る、尋いで、景虎、色部勝長等の参陣を求めて、晴信の軍に備ふ、 晴信、島津月下斎等の帰属をまつて、諏訪社上社頭役を勤仕せしむべき旨を、同社神長守矢頼真に告ぐ、
131
後奈良
弘治三年二月一五日
1557
仏涅槃日、相国寺住持集尭、仁如、上堂説法す、
140
後奈良
弘治三年二月二一日
1557
後奈良天皇、伊那郡文永寺再興のことにつき、山城醍醐寺理性院へ仰出さる、尋いで、文永寺厳詢、信濃に下り、武田晴信に、文永寺のことを訴訟せんとす、
141
後奈良
弘治三年二月二八日
1557
木曽御嶽権現社の神主滝某、御土公祭文を改書す、
142
後奈良
弘治三年三月一二日
1557
山城妙心寺、その開山慧玄関山、の二百年忌を預修す、後奈良天皇、影前に受衣して本有円成国師の号を諡し、同寺住持禅愉、亀年、拈香仏事を勤む、
142
後奈良
弘治三年三月一四日
1557
是より先、木島出雲守等、長尾景虎の兵の信濃に入るを、武田晴信に報ず、是日、晴信、信濃に出陣せんとし、その旨を出雲等に報ず、
148
後奈良
弘治三年三月二三日
1557
是より先、武田晴信の軍、高梨政頼を水内郡飯山城に攻むるにより、政頼、長尾景虎に救援を請ふ、是日、景虎、出兵せんとし、同政景の出陣を促す、
148
後奈良
弘治三年三月二八日
1557
武田晴信、水内郡飯縄権現神主仁科千日をして、同所務を安堵せしむ、
150
後奈良
弘治三年四月一日
1557
相国寺住持集尭、仁如、上堂説法す、
150
後奈良
弘治三年四月八日
1557
仏誕生日、相国寺住持集尭、仁如、上堂説法す、
152
後奈良
弘治三年四月一五日
1557
結制、是より先、相国寺住持集尭、仁如、小参説法す、是日、相国寺秉払を行ひ、集尭、上堂説法す、尋いで、集尭、再び上堂して、秉払頭首の労を謝す、 集尭、萬寿寺後堂首座玄蘇景轍、本年結制に秉払の頭首を勤仕し了つて、筑前聖福寺に帰るを送る詩をつくる、
153
後奈良
弘治三年四月二五日
1557
是より先、長尾景虎、善光寺に兵を進め、高井郡山田要害・福島等を鎮定す、是日、景虎、水内郡旭山要害を再興し、晴信の軍に備ふ、
161
後奈良
弘治三年五月六日
1557
相国寺開基足利義満忌日、同寺住持集尭、仁如、拈香仏事を修す、
163
後奈良
弘治三年五月一〇日
1557
長尾景虎、武田晴信と信濃に決戦せんとし、高井郡元隆寺に戦勝を祈る、
164
後奈良
弘治三年五月一二日
1557
長尾景虎、埴科郡香坂城を攻めて、之を焼く、尋いで、同郡坂木岩鼻を攻めて、之を破る、
168
後奈良
弘治三年七月三日
1557
是より先、水内郡飯山城将高梨政頼、越後春日山城将直江実綱を音問す、是日、実綱、之に答ふ、
169
後奈良
弘治三年七月五日
1557
武田晴信の軍、安曇郡小谷に長尾景虎の軍と戦ふ、尋いで、晴信、諸士の功を賞す、 晴信、倉沢中務少輔の請により、これを援く、
170
後奈良
弘治三年七月二三日
1557
武田晴信、大須賀久兵衛尉に、埴科郡坂木南条内の地を宛行ふ、
176
後奈良
弘治三年七月二三日
1557
是より先、播磨法雲寺住持永杲、東明、相国寺雲頂院雲沢軒主集尭、仁如、を訪ひ、将に別を告げんとす、是日、集尭、餞詩をつくりて之に贈る、
177
後奈良
弘治三年八月六日
1557
武田晴信、安曇郡山田左近をして、本領を安堵せしむ、
178
後奈良
弘治三年八月二九日
1557
是より先、長尾景虎・同政景、武田晴信と水内郡上野原に戦ふ、是日、景虎、南雲治部左衛門の戦功を賞す、また、政景、大橋藤能等の戦功を賞す、
178
後奈良
弘治三年一〇月二日
1557
六角義賢、その父定頼の七周忌仏事を相国寺に預修し、同寺雲頂院塔主集尭、仁如、をして陞座説法せしむ、
180
後奈良
弘治三年一〇月九日
1557
武田晴信、軍勢等の安曇郡千国谷中に乱妨するを停止せしむ、
192
後奈良
弘治三年一〇月一五日
1557
源棟満、伊那郡二善寺を修造す、
193
正親町
弘治三年一二月一四日
1557
篠原吉忠、諏訪郡極楽寺を造立し、是日、入仏供養を行ふ、
195
正親町
弘治三年一二月二七日
1557
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
196
正親町
弘治三年
1557
依田長繁、佐久郡湯原大明神に鰐口を寄進す、
197
正親町
永禄元年正月一日
1558
相国寺雲頂院塔主集尭、仁如、山城三聖寺妙徳院松月軒主聖澄月渓、の請に応じて、同院の徒光仝玉川、の扇面に賛す、
198
正親町
永禄元年正月八日
1558
伊那郡文永寺宗然・同厳詢、禁中太元護摩に参仕す、
199
正親町
永禄元年正月一一日
1558
正親町天皇、武田晴信に綸旨を下し、伊那郡文永寺・同郡阿島安養寺再興のことを命ぜらる、
199