長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻十二 (554頁~)
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正親町
永禄八年正月一日
1565
相国寺住持集尭、仁如、上堂説法す、
554
正親町
永禄八年正月八日
1565
是より先、武田信玄、兵を信濃より上野岩櫃に進め、同国沼田城を窺ふ、是日、上杉輝虎、沼田城将松本景繁等に諭して、その衛を厳にせしむ、
560
正親町
永禄八年二月六日
1565
相国寺住持集尭、仁如、赤松晴政の秉炬仏事を播磨置塩村に修す、
562
正親町
永禄八年二月七日
1565
武田信玄、上野箕輪城を攻略せんとし、諏訪社上社及び佐久郡新海明神に願文を納め、戦勝を祈る、
564
正親町
永禄八年
1565
諏訪社下社、明年常楽会頭役を、安曇郡小谷郷に充つ、
566
正親町
永禄八年三月一五日
1565
諏訪社上社三月会、
567
正親町
永禄八年三月二三日
1565
上伊那郡高遠町荊口薬師堂の修造、成る、
568
正親町
永禄八年四月七日
1565
諏訪社上社四月会、
569
正親町
永禄八年四月一五日
1565
埴科郡豊泉寺住持徳忠、節香、同郡禅透院に住持となる、
569
正親町
永禄八年四月二四日
1565
武田信玄・北条氏康の兵、上野に攻入るに依り、上杉輝虎、越後柏崎に兵を進む、是日、輝虎、また河田長親・村上国清等をして、上野長井に出陣せしむ、
570
正親町
永禄八年五月五日
1565
諏訪社上社五月会
572
正親町
永禄八年六月六日
1565
相国寺住持集尭、仁如、足利義輝の秉炬仏事を山城等持院に修す、
573
正親町
永禄八年六月二四日
1565
上杉輝虎、越後愛宕社に願文を納め、武田信玄の討滅を祈る、
575
正親町
永禄八年六月二五日
1565
是より先、武田信玄、信濃より上野に入り、同国倉賀野城を陥れ、更に長野業成を同国箕輪城に攻めんとす、是日、上杉輝虎、小泉城主富岡重朝をして業成を援けしめ、自らも信濃に出陣して、信玄を牽制せんとす、
576
正親町
永禄八年七月一五日
1565
相国寺鹿苑院塔主集尭、仁如、幕府の意を承けて、等循如環、を山城臨川寺住持たらしめんことを、同寺三会院塔主に通達す、
580
正親町
永禄八年七月二三日
1565
上杉輝虎、上野小泉城主富岡重朝に書を送り、武田信玄牽制のため、明日信濃に攻入るべき旨を伝ふ、
580
正親町
永禄八年七月二六日
1565
諏訪社上社御射山祭、
582
正親町
永禄八年
1565
埴科郡禅透院住持徳忠、節香、再び同寺住持を全林旃室、に譲る、
583
正親町
永禄八年八月一六日
1565
山城醍醐寺理性院尭雅、伊那郡文永寺宗然に伝法秘密を伝授す、
584
正親町
永禄八年八月二九日
1565
木曽義昌、木曽定勝寺如意庵をして、同庵領を安堵せしむ、
585
正親町
永禄八年
1565
是より先、埴科郡禅透院住持全林、旃室、埴科郡豊泉寺住持となり、徳応、喚室、禅透院住持の席を嗣ぐ、
586
正親町
永禄八年一〇月一日
1565
木曽黒沢若宮社の三十六歌仙板絵、成る、
587
正親町
永禄八年一一月一日
1565
武田信玄、諏訪社下社をして、祭礼を再興せしむ、 千野信氏の書状及び某目安案、
593
正親町
永禄八年一一月七日
1565
伊那郡開善寺住持宗販、速伝、秀忠姓闕く、の請に応じて、その母宗智勝琳、大姉の七周忌拈香仏事を修す、
663
正親町
永禄八年一一月一〇日
1565
是より先、上野池田佐渡守、真田幸隆を介して、武田信玄に属さんことを請ふ、是日、信玄、佐渡守の忠信を賞す、
665
正親町
永禄八年一一月一二日
1565
武田信玄、日向是吉をして、上杉輝虎の上野出陣に備へ、上野岩櫃城に赴き、真田幸隆と共に同国大戸の計略を致さしむ、
666
正親町
永禄八年一一月一五日
1565
武田信玄、筑摩郡西福寺の造営にあたり、同寺住持総芸才翁、に寺領を寄進す、
666
正親町
永禄八年一一月三〇日
1565
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋いで、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
667
正親町
永禄八年一二月一三日
1565
諏訪社上社、同社明年の神使御頭を定む、
668
正親町
永禄八年
1565
木曽定勝寺、東福寺開山円尓三百年忌仏事奉加銭を同寺に納む、
669