長野県立歴史館 信濃史料
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正親町
天正二年正月一日
1574
相国寺住持集尭、仁如、上堂説法す、
1
正親町
天正二年正月九日
1574
上杉謙信、西上野を経略せんとし、徳川家康に、織田信長と共に信濃・甲斐に出陣せんことを求む、
4
正親町
天正二年正月九日
1574
武田勝頼、諏訪郡下桑原等の諸郷をして、諏訪社上社御頭を勤仕せしむ、
5
正親町
天正二年正月二〇日
1574
伊那郡竹村久左衛門尉、同郡河野筑前守に米を借り、田地を質物に出す、
7
正親町
天正二年正月二九日
1574
武田勝頼、菅沼新兵衛及びその被官・馬等の諸関通過を許す、
7
正親町
天正二年二月五日
1574
是より先、武田勝頼、美濃を侵し、また、信濃等の兵をして、遠江を攻めしむ、是日、上杉謙信、上野沼田城に入り、さらに、兵を西上野に進め、徳川家康及び織田信長と策応して、勝頼を撃たんとす、
8
正親町
天正二年二月一〇日
1574
木曽定勝寺、同寺仏殿等の修理を始む、
10
正親町
天正二年三月七日
1574
武田勝頼、祖父信虎の葬礼を甲斐大泉寺に営まんとし、佐久郡竜雲寺全祝北高、の参府を促す、 信濃に関する信虎の書状
13
正親町
天正二年三月一三日
1574
徳川家康、村上国清に書を送り、上杉謙信の上野出兵を謝し、併せて、駿河出陣を約す、
14
正親町
天正二年三月二九日
1574
武田勝頼、木曽山村良利・良候父子をして、知行を安堵せしむ、
16
正親町
天正二年
1574
渡辺玄忠斎、佐久大井氏由緒を書す、 佐久郡大井庄由来 伴野十二郷等の郷名
17
正親町
天正二年
1574
相国寺鹿苑院塔主集尭、仁如、同寺常徳院の徒等芳蘭秀、の請に応じて、その養父祥寿院法印瑞兆嘉屋、の著書活機方に序す、
24
正親町
天正二年四月五日
1574
木曽義昌、島崎監物に、木曽馬篭坂下の地を宛行ふ、
26
正親町
天正二年四月一五日
1574
結制、相国寺鹿苑院塔主集尭、仁如、石見安国寺の徒恵周西岩、の請に応じて、その秉払索話法語を代作す、
26
正親町
天正二年四月一八日
1574
相国寺雲頂院雲沢軒主集尭、仁如、詩を作りて、豫て上京中の常陸正宗寺住持顕良、籌叔、並びにその徒玄茂騰甫、騰叔、の同国に帰るに餞す、
27
正親町
天正二年四月二五日
1574
相国寺雲頂院雲沢軒主集尭、仁如、天竜寺妙智院の徒令彰三章、の請に応じて、その養母の七周忌追悼の詩の韻を和す、
29
正親町
天正二年四月二八日
1574
伊那郡新野の瑞光院永歳、万休、寂す、
29
正親町
天正二年五月一日
1574
武田勝頼、諏訪社上社神長守矢信真等をして、同社に輪番参篭せしむ、
31
正親町
天正二年五月一九日
1574
小県郡真田一徳斎、幸隆、卒す、
31
正親町
天正二年六月一一日
1574
武田勝頼、遠江高天神城に、徳川家康の将小笠原長忠を囲み、その戦況を佐久郡大井高政に報ず、
33
正親町
天正二年六月一六日
1574
伊那郡文永寺宗然、弁才天一印法を全栄に授く、
34
正親町
天正二年六月二四日
1574
武田勝頼の将今井信仲、遠江高天神城の落城を諏訪社上社某に報じ、その陣中祈念を謝す、
35
正親町
天正二年六月二九日
1574
織田信長、上杉謙信に書を送り、今秋を期して信濃・甲斐に攻入り、武田勝頼を撃たんことを約す、
36
正親町
天正二年
1574
正親町天皇、玄旦希周、を丹波高源寺住持となす、相国寺雲頂院雲沢軒主集尭、仁如、山門の疏をつくり、同寺の一衆に代りて、その駕を迎請す、
40
正親町
天正二年
1574
相国寺雲頂院雲沢軒主集尭、仁如、三聖寺妙徳庵松月軒主聖澄月渓、の請に応じて、頂相に自賛を加ふ、
41
正親町
天正二年七月二一日
1574
上杉謙信、高橋又五郎をして、高井郡内の所領を安堵せしむ、
42
正親町
天正二年七月二八日
1574
前南禅・相国両寺住持集尭、仁如、寂す、
42
正親町
天正二年
1574
東筑摩郡波田村旧若沢寺の石造閻魔法王像、成る、
61
正親町
天正二年八月一〇日
1574
是より先、保科八郎左衛門尉、板山孫左衛門尉に・玉泉坊と、孫左衛門尉の隠居分田地につき争論す、是日、原昌胤・栗原信盛等、之を裁す、
61
正親町
天正二年八月一四日
1574
武田勝頼、諏訪郡林安右衛門尉に、諸役を免ず、
64
正親町
天正二年八月二四日
1574
本願寺光佐、顕如、光教証如、の画像に裏書を書し、之を水内郡真浄寺明勝に授く、
64
正親町
天正二年
1574
宗冨、春芳、諏訪社下社千手堂を造立し、上棟を行ふ、
65
正親町
天正二年
1574
下水内郡北野天満宮の鰐口、成る、
66
正親町
天正二年九月七日
1574
某、平沢藤左衛門尉に、伊那郡富田郷の闕落せる百姓跡の夫田を給し、夫役を勤めしむ、 某、平沢豊前学・同藤左衛門に手形を進む、
67
正親町
天正二年九月九日
1574
武田勝頼、信濃金堀衆に、駿河榛原郡に於いて所領を宛行はんことを約す、
68
正親町
天正二年一一月一八日
1574
信濃小野社大祝源満昌、遠江鴨江寺の鰐口を、同社に寄進す、
69
正親町
天正二年一一月二一日
1574
慈恩寺権大僧都甚円、山城醍醐寺理性院尭雅より、諏訪郡仏法寺に於いて、伝法潅頂を受く、
69
正親町
天正二年一一月二二日
1574
武田信豊、波合備前守の音問に応へ、徳川家康・北条氏政の徹退等により、甲斐の無事を報ず、
71
正親町
天正二年閏一一月三日
1574
武田勝頼、更級郡出浦主水佐をして、闕落せる被官人を召還せしむ、
72
正親町
天正二年閏一一月三日
1574
武田勝頼の将日向虎頭、伊那郡阿嶋安養寺の毘沙門堂を修覆す、
72
正親町
天正二年閏一一月一一日
1574
武田勝頼、深山宗三をして、佐久郡依田信蕃と共に、遠江二俣城に在城せしむ、
73
正親町
天正二年閏一一月一一日
1574
真田信綱、小県郡蓮華童子院をして、同郡四阿山別当職を安堵せしむ、
74
正親町
天正二年閏一一月一九日
1574
武田勝頼、諏訪社上社神長守矢真をして、闕落せる被官人を召還せしむ、
74
正親町
天正二年閏一一月二二日
1574
是より先、諏訪社上社祢宜大夫某、武田勝頼に玉会及び馬を贈る、是日、勝頼、之を謝す、
75
正親町
天正二年一二月三日
1574
諏訪社上社神長守矢信真、同社祢宜大夫某と、同社参篭の座次につきて争ふ、是日、武田勝頼、之を裁す、 諏訪社上社祢宜大夫等、同社参篭の座次等につき、武田勝頼に目安を捧ぐ、
76
正親町
天正二年一二月一〇日
1574
武田勝頼、木曽義昌に、美濃国平定の後、所領を宛行ふべきを約す、
78
正親町
天正二年一二月一三日
1574
諏訪社上社、同社明年神使御頭を定む、
78
正親町
天正二年一二月一六日
1574
武田勝頼、甲府より伊那郡高遠に至る諸宿をして、某のため伝馬を出さしむ、
79
正親町
天正二年一二月一九日
1574
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋いで、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
79
正親町
天正二年一二月二〇日
1574
武田勝頼、保科八郎左衛門に、伊那郡殿嶋等の地を宛行ふ、
80
正親町
天正二年一二月二五日
1574
武田勝頼、木工允某をして、郷次の普請役を免じ、分国中に於いて、狩猟するを許す、
81
正親町
天正二年一二月二五日
1574
武田勝頼、佐久郡神津善兵衛尉に、小県郡海野の地を宛行ふべきを約す、
82
正親町
天正三年二月五日
1575
武田勝頼、筑摩郡長興寺をして、寺領を安堵せしむ、
83
正親町
天正三年二月一四日
1575
武田勝頼、内田監物に、旧の如く、その所領内の普請役を免除す、
84
正親町
天正三年二月一四日
1575
武田勝頼、市川豊後守に、その荷物の諸関通過を許す、
84
正親町
天正三年二月一六日
1575
上杉謙信、村上国清等の軍役を定む、
85
正親町
天正三年二月二六日
1575
是より先、織田信長、小笠原貞慶に書を送り、共に信濃に出陣せんことを勧む、是日、信長の将河尻秀隆、貞慶に決意を促す、
86
正親町
天正三年三月七日
1575
諏訪郡仏法寺尊朝、同寺に曼茶羅供を修し、また、山城醍醐寺理性院尭雅、同郡惣持寺に尊剛の七回忌供養を修す、
87
正親町
天正三年三月九日
1575
諏訪郡仏法寺尊朝、山城醍醐寺理性院尭雅より、伝法潅頂を受く、
88
正親町
天正三年三月二八日
1575
矢沢綱頼、小県郡良泉寺に寺領を寄進す、
89
正親町
天正三年四月二一日
1575
武田勝頼、宗冨春芳、をして、諏訪社下社千手堂を造立せしむ、是日、造立成り、曼茶羅供あり、
90
正親町
天正三年五月二一日
1575
是より先、武田勝頼、甲斐・信濃の兵を率ヰて三河に入り、徳川家康の将奥平信昌を同国長篠城に囲む、是日、勝頼、織田信長・徳川家康等と戦ひて敗る、 勝頼、内藤昌豊に佐久郡岩村田着陣を促す、 勝頼、小幡信貞に条目を与へて、軍法以下のことを示す、
94