長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻十五 (100頁~)
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正親町
天正一〇年二月一九日
1582
是より先、北条氏邦、同氏政に信濃口の状況を報ず、是日、氏政、氏邦に情報の実否を訊す、
100
正親町
天正一〇年二月二〇日
1582
上杉景勝、木曽義昌の武田勝頼に叛くを聞き、勝頼に援兵を送らんとす、是日、勝頼、之を謝し応援を求む、
101
正親町
天正一〇年二月二一日
1582
織田信長、滝川一益・川尻秀隆等をして、伊那郡高遠城攻略のため、その道筋に付城を築かしむ、
102
正親町
天正一〇年二月二二日
1582
北条氏政、同氏邦に、織田信長の信濃攻略の計画を報ず、
105
正親町
天正一〇年二月二八日
1582
須田満親、越中に戦ひ、援を上杉景勝に請ふ、是日、景勝、海路出陣せんとして、風波の為に果す能はざるを答報す、
106
正親町
天正一〇年二月二八日
1582
武田勝頼、穴山信君の徳川家康に降り織田信長に服属せるを聞き、兵を信濃より甲斐に還す、尋いで、居城新府館を焼きて逃亡す、
106
正親町
天正一〇年二月二九日
1582
織田信忠、伊那郡高遠城主仁科盛信に降参を促す、盛信等篭城衆、之を肯ぜず、
108
正親町
天正一〇年
1582
織田信忠、伊那郡興禅寺等に禁制を掲ぐ、 信忠、伊那郡建福寺等に禁制を掲ぐ、
110
正親町
天正一〇年三月一日
1582
織田信長、河尻秀隆の情報に答へ、出馬の期を告げ、高遠城攻撃を慎重にせしむ、尋いで、信長、同信忠にもこのことを告ぐ、
112
正親町
天正一〇年三月一日
1582
上杉景勝、信濃のことにつき、上条宜順政繁、に命ず、是日、宜順、之を諾す、
115
正親町
天正一〇年三月二日
1582
織田信忠、伊那郡高遠城を攻めて、是日、之を陥れ、城将仁科盛信を斬る、 武田氏の臣三枝元久栄富斎、の等々力次右衛門尉宛書状
116
正親町
天正一〇年三月二日
1582
武田勝頼の将河野家昌等、水内郡長沼城にあり、是日、家昌等、春日山在住の勝頼の臣長井昌秀に、援軍の斡旋を依頼す、
122
正親町
天正一〇年三月三日
1582
織田信忠、軍を諏訪郡に進め、諏訪社上社を焼き、高島城を攻取る、
123
正親町
天正一〇年三月五日
1582
上杉景勝、武田勝頼の請に依り、松本房繁等を水内郡長沼に出陣せしむ、是日、房繁等、水内郡牟礼に到り、斎藤朝信等の到来を待つ、
125
正親町
天正一〇年三月六日
1582
上杉景勝、飯山城将祢津常安等をして、織田信長の軍に備へしむ、 景勝の上条宜順宛の書状
127
正親町
天正一〇年三月六日
1582
織田信長、美濃呂久渡に着し、仁科盛信の首級を実検し、之を同国長良河原に梟す、
129
正親町
天正一〇年三月六日
1582
真田昌幸、上野沼田城将矢沢綱頼をして、軍兵を召集し、その扶持として、上野臼根の地等を配当せしむ、 真田昌幸、沼田城に加番衆を送る、
130
正親町
天正一〇年三月七日
1582
織田信忠、陣を上諏訪より、甲府に移す、
132
正親町
天正一〇年三月七日
1582
是より先、高井郡市川新六郎、甲斐より帰国す、是日、上杉景勝、新六郎に書を送り、之を慰す、
132
正親町
天正一〇年三月九日
1582
上杉景勝、岩井信能の埴科郡海津以北の諸士を服属せしめたるを賞す、
133
正親町
天正一〇年三月九日
1582
小笠原貞慶、松林和泉に所領を宛行ふ、
134
正親町
天正一〇年三月一〇日
1582
是より先、上杉景勝、新発田重家を撃たんがため、春日山城を発す、是日、景勝、築地資豊に信濃・越後の情勢を見合せ、早く出陣すべきを命ず、
134
正親町
天正一〇年三月一一日
1582
武田勝頼及び子信勝等、織田信忠の軍に破れ、甲斐田野に自殺す、 武田勝頼及び一族家臣の出せる書状中、信濃に関係ある年次不詳の文書
135
正親町
天正一〇年三月一二日
1582
武蔵鉢形城主北条氏邦、真田昌幸に北条氏直への臣属を促す、
154
正親町
天正一〇年三月一三日
1582
織田信長、伊那郡根羽に着陣す、尋いで、武田勝頼の首級を実検し、之を同郡飯田に梟す、
154
正親町
天正一〇年三月一三日
1582
直江兼続、岩井信能に誓詞を送り、今後の執成を約す、
155
正親町
天正一〇年三月一四日
1582
小笠原貞慶、二木重吉等に所領を宛行ふ、尋いで、耳塚作左衛門等にも宛行ふ、
156
正親町
天正一〇年三月一四日
1582
駿河田中城将依田信蕃、同城を徳川家康に明渡し、是日、佐久郡春日城に帰る、
160
正親町
天正一〇年三月一六日
1582
是より先、武田信豊、佐久郡小諸城下曽根賢範岳雲軒、に頼る、賢範、信豊を殺し、是日、首級を伊那郡飯田の織田信長に進む、 信豊の書状
161
正親町
天正一〇年三月一七日
1582
織田信長、宮部継潤に、信濃・甲斐・上野等の戦況を報ず、
163
正親町
天正一〇年三月一七日
1582
望月印月斎、一峯、村田但馬守に佐久郡大日方の地を宛行ふ、
164
正親町
天正一〇年三月一八日
1582
正親町天皇、信濃のことを織田信長の存分に任せらる、
164
正親町
天正一〇年三月一九日
1582
織田信長、伊那郡飯田より上諏訪に移陣す、
165
正親町
天正一〇年三月一九日
1582
上杉景勝、信濃・関東のこと及び海上風波のため、越中出陣を延引す、是日、景勝、江口式部丞等に出馬の期を告ぐ、
165
正親町
天正一〇年三月二〇日
1582
是より先、徳川家康、諏訪に到り織田信長に会す、是日、木曽義昌・小笠原信嶺等、信長に謁す、信長、信嶺等をして、旧領を安堵せしめ、また、義昌に安曇・筑摩の二郡を加増す、
167
正親町
天正一〇年三月二〇日
1582
依田信蕃、徳川家康の勧めに依り、遠江二俣に隠棲す、
170
正親町
天正一〇年三月二二日
1582
小県郡室賀勝永、滝沢八兵衛の出仕を促す、
172
正親町
天正一〇年三月二三日
1582
織田信長、上野及び佐久・小県の二郡を滝川一益に与へ、関東を鎮せしむ、
172
正親町
天正一〇年三月二四日
1582
織田信長、筑摩郡深志城の城米を在陣の諸将士に頒つ、尋いで、北条氏政、信長の飼馬料として、米千俵を諏訪に輸送す、
173
正親町
天正一〇年三月二四日
1582
上杉景勝、越中守将上野宗秀をして、須田満親の指揮に従ひ、信濃口の仕置を堅固にせしむ、
174
正親町
天正一〇年三月二四日
1582
上杉景勝、越後山寺院主の安曇郡仁科口の戦功を賞す、
175
正親町
天正一〇年三月二七日
1582
織田信長、木曽義昌をして、所領を領知せしむ、
176
正親町
天正一〇年三月二八日
1582
織田信忠、甲府より諏訪に帰陣す、尋いで織田信長、諸将を帰陣せしむ、
176
正親町
天正一〇年三月二九日
1582
織田信長、武田氏旧領の国割を行ひ、諏訪郡を河尻秀隆に、高井・水内・更級・埴科四郡を森長可に、伊那郡を毛利秀頼に与へ、且つ甲斐・信濃の掟を定む、
177
正親町
天正一〇年
1582
織田信長、伊那郡大島町等に禁制を掲ぐ、
180
正親町
天正一〇年
1582
織田信長、信濃金鑿等をして、旧地に還住し、国中採掘に努めしむ、
187
正親町
天正一〇年
1582
某、諏訪社上社神長守矢信真をして、その居所に還住せしむ、
187
正親町
天正一〇年
1582
木曽義昌、安曇郡栗尾の地を領地す、
188
正親町
天正一〇年四月一日
1582
岩井信能、安曇郡仁科口警備の任を解かれ、水内郡飯山に差向けられんことを直江兼続に請ふ、
188
正親町
天正一〇年四月一日
1582
上条宜順、政繁、直江兼続に信濃・越後境等の備につき意見を具申す、
190
正親町
天正一〇年四月二日
1582
森長可、埴科郡熊野権現に、禁制を掲ぐ、尋いで、更級郡康楽寺等に、禁制を掲ぐ、
191
正親町
天正一〇年四月二日
1582
織田信長、帰洛せんとし、上諏訪を発し、甲斐に赴く、
194
正親町
天正一〇年四月二日
1582
上杉景勝、諸将をして、水内郡長沼城を攻略せしむ、
195
正親町
天正一〇年四月三日
1582
上杉景勝、信濃及び越中等の処置を、上条宜順政繁、に諮る、
196
正親町
天正一〇年四月三日
1582
真田昌幸、別府若狭等の、小県郡室賀家中の者を味方とせる功を賞す、
198
正親町
天正一〇年四月五日
1582
芋川親正等、織田信長の将稲葉貞通を、水内郡飯山城に攻めて敗退す、尋いで、森長可、長沼城を奮回し、親正等を同郡大蔵に攻めて破る、 親正、景勝に属す、
198