長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻十五 (300頁~)
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正親町
天正一〇年七月一二日
1582
伊那郡松岡頼貞、関川総左衛門に、同郡市田郷内の地を宛行ふ、
300
正親町
天正一〇年七月一二日
1582
上杉景勝、島津忠直等の詫言に依り、原民部右衛門慰等を赦し、知行を安堵せしむ、
301
正親町
天正一〇年七月一三日
1582
上杉景勝、島津忠直に所領を宛行ひ、同常陸介等をして、本領を安堵せしむ、 景勝、真島与七郎に知行を宛行ふ、
303
正親町
天正一〇年七月一三日
1582
諏訪頼忠、諏訪郡高島城に拠り、北条氏政に款を通ず、是日、氏政、頼忠をして、その所領を安堵せしむ、
305
正親町
天正一〇年七月一三日
1582
北条氏政、佐久郡井出善四郎等をして、甲斐在陣の徳川家康の軍状を探らしむ、
309
正親町
天正一〇年七月一三日
1582
北条氏政、佐久郡高見沢但馬守等に、知行を宛行ふ、
310
正親町
天正一〇年七月一四日
1582
徳川家康、その将酒井忠次をして、信濃を管せしむ、
311
正親町
天正一〇年七月一四日
1582
小県郡祢津昌綱、大須賀康高に依り、徳川家康に属さんとす、是日、家康、之を許し、将に信濃に入らんとする旨を告ぐ、
316
正親町
天正一〇年七月一五日
1582
徳川家康、下条頼安の、小笠原信嶺と謀り、藤沢頼親を誘降して、伊那郡高遠城を奪取せるを褒し、併せて、諏訪郡高島城及び河中島の形勢を報じて、兵を諏訪に出さしむ、
317
正親町
天正一〇年七月一五日
1582
上杉景勝、西片房家・楠川将綱をして、安曇郡に於いて軍忠を致せるものに、恩賞を出さしむ、
318
正親町
天正一〇年七月一八日
1582
是より先、北条氏直、信濃に入る、真田昌幸等緒将、多く之に属す、是日、北条氏の臣黒沢繁信、甲斐金山衆に書を与へて、信濃の形勢を報じ、氏直の甲斐に入るをまちて軍に会せしむ、
319
正親町
天正一〇年七月一九日
1582
是より先、徳川家康の将酒井忠次、兵を率ヰて諏訪郡に入る、是日、忠次、諏訪社上社神長守矢信真をして、社領を安堵せしむ、
320
正親町
天正一〇年七月一九日
1582
是より先、小笠原貞慶、叔父同玄也貞種、を攻めて、筑摩郡深志城を復し、玄也をして越後に走らしむ、是日、貞慶、三村勘兵衛等に、筑摩郡洗馬の地を宛行ふ、 三村本領の注文
322
正親町
天正一〇年七月一九日
1582
上杉景勝、川中島に出陣し、佐久郡在陣の北条氏直と戦はんとす、氏直、戦はずして退く、是日、景勝、之を芦名盛氏に報ず、
328
正親町
天正一〇年七月一九日
1582
是より先、依田信守、佐久郡伴野を攻む、是日、徳川家康、信守等の戦功を賞す、伴野貞能、鷹見沢庄左衛門に所領を宛行ふ、
330
正親町
天正一〇年七月二〇日
1582
是より先、小笠原貞慶、木曽義昌と筑摩郡本山に戦ひ、貞慶の臣犬甘治右衛門戦死す、是日、貞慶、治右衛門の弟久知をして、その名跡を継がしむ、
333
正親町
天正一〇年七月二〇日
1582
正親町天皇、山城醍醐寺理性院尭助をして、毛利秀頼の、伊那郡文永寺・安養寺を犯すを、神戸信孝に訴へしむ、 文永寺・安養寺の由緒覚書
334
正親町
天正一〇年七月二二日
1582
徳川家康の将酒井忠次、諏訪郡高島城に諏訪頼忠を攻む、
336
正親町
天正一〇年七月二三日
1582
北条氏政、柳沢孫右衛門に、諏訪郡桑原郷を宛行ふ、
342
正親町
天正一〇年七月二三日
1582
上杉景勝、高井郡の人仙仁靭負佐をして、本領を安堵せしむ、尋いで、春日三河守等に所領を宛行ひ、或は本領を安堵せしむ、
343
正親町
天正一〇年七月二三日
1582
小笠原貞継、松林和泉をして、筑摩郡深志の地を沙汰せしむ、
347
正親町
天正一〇年七月二六日
1582
徳川家康、依田信蕃に、諏訪・佐久両郡を宛行ふ、
348
正親町
天正一〇年七月二六日
1582
徳川家康、知久頼氏をして、伊那郡知久本領を安堵せしむ、
349
正親町
天正一〇年七月二六日
1582
北条氏政、真田昌幸の将矢沢綱頼等に、高井郡井上の地を宛行ふ、
351
正親町
天正一〇年七月二七日
1582
木曽義昌、小野内記助に、筑摩郡桐原の地を宛行ひ、同郡林郷を預く、 木曽義昌の木曽定勝寺宛の書状
353
正親町
天正一〇年七月二七日
1582
小笠原貞継、小林勘右衛門等をして、筑摩郡栗林北方の地等を安堵せしむ、尋いで、穂苅太郎左衛門等に所領を宛行ふ、
354
正親町
天正一〇年七月二八日
1582
上杉景勝、板屋光胤に横目役を命じ、更級郡布施等の地を宛行ふ、
357
正親町
天正一〇年七月二八日
1582
下条信氏、伊那郡瑞光院の寺規を定む、
358
正親町
天正一〇年七月二八日
1582
北条氏直、佐久郡竜雲寺をして、寺領並びに末寺等を安堵せしむ、
359
正親町
天正一〇年七月二八日
1582
木曽義昌、福田某を民部少輔となす、
360
正親町
天正一〇年
1582
小笠原貞慶、筑摩郡若沢寺に禁制を掲ぐ、
360
正親町
天正一〇年
1582
下条頼安、糟谷与五衛門及び原満五郎に本領安堵を約す、
360
正親町
天正一〇年八月一日
1582
上杉景勝、信濃に在りて今井源右衛門に書を送り、越後新発田重家討伐のため出陣を促す、
361
正親町
天正一〇年八月一日
1582
佐竹義重の将梶原政景、里見義頼の臣岡本但馬守に、信濃・甲斐の形勢を報ず、
363
正親町
天正一〇年八月三日
1582
徳川家康の将酒井忠次等、北条氏直の大軍を率ヰて来るを聞き、諏訪郡高島の囲を解き、同郡乙骨に退く、氏直、之を追ふ、忠次等、更に、甲斐に退く、
364
正親町
天正一〇年八月三日
1582
上杉景勝、香坂能登守等に、水内郡鬼無里等の地を宛行ふ、尋いで、大日方佐渡守等に、安曇郡仁科の地を宛行ふ、
369
正親町
天正一〇年八月三日
1582
小笠原貞慶、犬飼久知をして、所領安曇郡犬甘等の地を安堵せしむ、
370
正親町
天正一〇年八月五日
1582
上杉景勝、村上景国をして、越後の知行地を安堵せしめ、条目を与ふ、
371
正親町
天正一〇年八月五日
1582
上杉景勝、大滝土佐守等に、地を給し、或は、信濃の知行地の緒役を免ず、 景勝、井上彦二郎等をして、越後に在住せしめ、また、大滝甚兵衛慰等をして、本領を安堵せしむ、
374
正親町
天正一〇年八月六日
1582
保科正直、諏訪社上社権祝矢島某の、玉会・守符を贈れるを謝す、 正直、諏訪社上社に神領を寄進せんとす、
380
正親町
天正一〇年八月七日
1582
上杉景勝、更級郡荒砥在番衆を定む、
381
正親町
天正一〇年八月七日
1582
上杉景勝、水内郡上高野等の地を同郡長沼に付け置き、島津忠直をして、その給人を撰ばしむ、また、水内郡葛山の地も長沼に付け、葛山衆に定書を与ふ、
382
正親町
天正一〇年八月七日
1582
小笠原貞慶、筑摩郡西福寺に、禅興寺分及び諏訪郡慈雲寺分の地を寄進す、
384
正親町
天正一〇年八月七日
1582
木曽義昌、三村織部介等に、筑摩郡斧沢遺跡を宛行ふ、
384
正親町
天正一〇年八月八日
1582
上杉景勝、岩井信能等に、水内郡飯山城の条規を示す、
385
正親町
天正一〇年八月八日
1582
真田昌幸、宮下孫兵衛をして、横簗場を取締をしむ、
386
正親町
天正一〇年八月九日
1582
北条氏邦、諏訪社上社神長守矢信真の、北条氏のために祈祷せるを謝す、
386
正親町
天正一〇年八月九日
1582
徳川家康、木曽義昌に、佐久・小県両郡の人質を還すべきことを求め、併せて、義昌の所領を安堵す、
387
正親町
天正一〇年八月九日
1582
是より先、徳川家康、長坂右近助に、信濃の地の替地を甲斐に給す、是日、右近助等をして、所領を安堵せしむ、 家康、塚本喜兵衛・長井又五郎に所領を宛行ふ、
388
正親町
天正一〇年八月九日
1582
小笠原貞慶、筑摩郡長興寺をして、寺領を安堵せしめ、また、同郡祝梅庵に寺領を寄進す、
390
正親町
天正一〇年八月一二日
1582
徳川家康、下条頼安に、小笠原信嶺・知久頼氏の所領を除く伊那郡の地を与へ、奥平信昌等を同郡飯田に遣はして、頼安を援けしむ、
391
正親町
天正一〇年八月一二日
1582
小笠原貞慶、筑摩郡日岐城を攻む、
393
正親町
天正一〇年八月一二日
1582
芦名盛隆、上杉景勝の信濃平定を賀し、併せて、越後新発田重家を伐たんとするに賛す、
398