長野県立歴史館 信濃史料

「信濃史料」 巻十五 (1頁~)


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天皇 年月日 西暦 記事
正親町天正九年正月二二日1581武田勝頼、甲斐韮崎に新館を築かんがため、分国中より人足を徴す、是日、真田昌幸、その旨を某に伝ふ、1
正親町天正九年二月七日1581武田勝頼、小県郡大門郷の伝馬条規を定む、2
正親町天正九年二月一一日1581武田勝頼、小県郡矢沢綱頼等の、上野沼田に於いて戦功を励むを賞す、5
正親町天正九年二月一四日1581武田勝頼、諏訪社下社神宮寺井坊をして、同社千手堂を造営せしめ、その間、同寺徳役並びに門前百姓の普請役を免ず、7
正親町天正九年二月二〇日1581武田勝頼、真下但馬に、その所領信濃曽利町分の郷次諸役を免除す、8
正親町天正九年二月二一日1581武田勝頼、小川可遊斎に、知行を宛行ふことを約す、真田昌幸、之を奉ず、9
正親町天正九年二月二一日1581仁科盛信、弥三朗姓闕くに、渋田見盛種知行所安曇郡狐島の地等を宛行ふ、9
正親町天正九年二月二七日1581上杉景勝、更級郡の人岡田十左衛門に、越後北崎分等の地を宛行ふ、10
正親町天正九年1581木曽義昌、木曽興禅寺に禁制を掲ぐ、10
正親町天正九年1581神戸秀次、伊那郡知久平八幡社に社領を寄進す、11
正親町天正九年三月二日1581佐久郡竜雲寺住持全祝、北高、同寺を越後雲洞庵末寺として、同庵住持存達通天、に附属す、12
正親町天正九年三月六日1581武田勝頼、浦野孫六郎等をして、某地の城普請を励ましむ、 勝頼、真田昌幸をして、浦野民部少輔の参陣を促さしむ、13
正親町天正九年三月七日1581真田昌幸、海野幸光等の、上野に於いて軍功を励むを賞す、 幸光、武田勝頼に矢根を贈り、勝頼、之に答謝す、15
正親町天正九年三月二一日1581武田勝頼、保科正直をして、伊那郡片蔵の闕落せる百姓を召還さしむ、15
正親町天正九年三月二二日1581徳川家康、武田勝頼の属城遠江高天神城を攻めて、之を陥る、水内郡の人栗田鶴寿等、戦死す、 依田立慶の蓮華定院宛の書状16
正親町天正九年四月五日1581武田勝頼、香坂右近助をして、伊那郡円福寺に、同郡伊那辺の内の地を宛行はしむ、18
正親町天正九年四月六日1581木曽定勝寺、同寺惣門を造立す、19
正親町天正九年四月二〇日1581織田信長の将菅屋長頼、能登七尾城に入り、是日、須田満親等に答書して、上杉景勝の非を詰る、20
正親町天正九年五月九日1581徳川家康、遠江奥山惣十郎等に、伊那郡遠山領等の地を宛行ふ、22
正親町天正九年五月二一日1581武田勝頼、大竜をして、佐久郡安養寺住持たらしむ、22
正親町天正九年五月二三日1581保科正直、伊那郡藤沢の八郎左衛門に、同郡藤沢片蔵の闕落せる百姓の跡を付し、年貢等を弁済せしむ、23
正親町天正九年五月二五日1581武田勝頼、栗田永寿をして、亡父鶴寿の所領を安堵せしむ、24
正親町天正九年六月一日1581高井郡興国寺住持順京、高山、順尭に国皇授戒作法を伝授す、25
正親町天正九年六月七日1581武田勝頼、真田昌幸をして、上野沼田に帰城せしめ、是日、在城条目を与ふ、25
正親町天正九年六月一一日1581小笠原貞慶、色部修理大夫に幕之伝授書を与ふ、29
正親町天正九年六月一九日1581武田勝頼、上野箕輪城将内藤昌月に命じ、佐久郡竜雲寺門前番匠を、同寺方丈造立のため帰国せしむ、 昌月、勝頼より上野箕輪在城を命ぜらる、 勝頼、昌月に戦況を報ず、29
正親町天正九年六月二一日1581武田勝頼、埴科郡西条治部少輔をして、上野沼田に在城し、真田昌幸の指図に従はしむ、32
正親町天正九年七月四日1581武田勝頼、甲斐善光寺の条規を定め、之を栗田永寿等に与ふ、33
正親町天正九年七月一〇日1581真田昌幸、須田新左衛門等の戦功を賞す、35
正親町天正九年七月一〇日1581武田勝頼、伊那郡建福寺の条規を定む、37
正親町天正九年七月二〇日1581上杉景勝の将村山慶綱等、越中番将村上景国等に替り、魚津城等を守る、38
正親町天正九年八月五日1581是より先、武田勝頼、小川可遊斎の請に応じ、兵を西上野に出す、是日、真田昌幸をして、重ねて要請あらば自ら出馬すべき旨を可遊斎に伝へしむ、40
正親町天正九年八月二八日1581平林宗忠等、高井郡夜交郷内を検注す、40
正親町天正九年九月一一日1581武田信綱、筑摩郡牛伏寺に、同寺領増分を寄進し、同寺をして、信綱所領同郡小池の地に隠居所を建てしむ、 信綱、知行地伊那郡小川郷田屋敷に於いて竹木を採るを禁ず、 信綱、小川郷内百姓をして、諸役を懈怠なからしむ、41
正親町天正九年九月一八日1581是より先、織田信長の臣佐々成政、越中勝興寺佐運を攻む、是日、佐運の将寺島盛徳等、戦況を須田満親等に報ず、 越中の番将須田満親、直江兼読に音信す、43
正親町天正九年一〇月四日1581佐久郡竜雲寺住持全祝、北高、喜雲庵主姓闕く、のために秉炬仏事を行ふ、 全祝、某等のために秉炬仏事を行ふ、45
正親町天正九年一〇月一三日1581織田信長、奥平喜八郎をして、信濃境に砦を築かしめんとす、是日、信長の臣滝川一益、喜八郎を招く、47
正親町天正九年一〇月一五日1581織田信長、越後へ出陣せんとし、富田知信に書を送り、高井郡高梨等と共にこれに、協力せんことを求む、48
正親町天正九年一〇月一七日1581小県郡定津院住持玄忠、大休、同寺開山宗英拈笑、の百年忌仏事を修す、49
正親町天正九年一〇月一九日1581武田勝頼、夜交左近丞に、その知行地高井郡夜交郷の検地増分の地を預く、49
正親町天正九年一〇月二一日1581武田勝頼、佐久郡神頭大夫をして、父式部大夫の遺跡を安堵せしむ、51
正親町天正九年一〇月二八日1581下条信氏、平沢勘四郎を伊那郡知久平代官となし、三石新左衛門分の地を宛行ふ、 三石新左衛門尉等の知行注文51
正親町天正九年一〇月二九日1581武田勝頼、兵を駿河に遣はして、北条氏政の軍と戦ふ、是日、勝頼、信濃・上野の兵を送り、曽根河内守を救援せしむ、54
正親町天正九年一一月一四日1581佐久郡下曽祢浄喜、賢範、同郡追分諏訪社の大般若経を修補す、 浄喜、同社大般若経を修補す、55
正親町天正九年一一月一四日1581下条信氏、伊那郡知久平代官平沢道性に契状を送り、同郷百姓の訴訟を直裁せぜるを約す、60
正親町天正九年一一月二四日1581高井郡興国寺住持順京、高山、順尭に三宝印の切紙を伝授す、60
正親町天正九年一二月一三日1581諏訪社上社、同社明年の神使御頭を定む、61
正親町天正九年一二月二四日1581是より先、諏訪社上社神長守矢信真、武田勝頼の新館竣工を賀し、守符・玉会を贈る、是日、勝頼、之に答謝す、62
正親町天正九年一二月二七日1581諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、64
正親町天正九年1581諏訪社上社、同社本年頭役料を注す、65
正親町天正九年1581伊勢内宮御師宇治久家、信濃国道者之御祓くばり日記を注す、67
正親町天正九年1581伊那郡開善寺住持宗販、速伝、武田勝頼の陣中武運長久を祈る、 勝頼の将穴山信君、駿河霊泉寺開山宗販に寺領を安堵せしむ、79
正親町天正一〇年正月二八日1582武田勝頼、上野善導寺に寺領を寄進す、真田昌幸、之を奉ず、82
正親町天正一〇年二月二日1582木曽義昌、武田勝頼に叛きて、織田信長に通ず、是日、勝頼、義昌を撃たんとし、諏訪郡上原に陣す、82
正親町天正一〇年二月六日1582木曽義昌、織田信忠の将塚本三郎兵衛尉に書を送り、信忠の来援を促さんことを請ふ、84
正親町天正一〇年二月六日1582織田信忠の先鋒河尻秀隆等、木曽・美濃岩村両口より攻め入る、武田勝頼の将下条信氏、伊那郡滝沢要害を守る、是日、信氏の族九兵衛叛し、信氏を同要害より逐ふ、85
正親町天正一〇年二月九日1582北条氏政、同氏邦に信濃の戦況を問ふ、尋いで、また問ふ、86
正親町天正一〇年二月一〇日1582上杉景勝、唐人親広等の復属を賞す、是日、須田満親もまた旨を伝ふ、 須田満親、上杉景勝に飛騨衆を招かれんことを請ふ、 満親の部将楠川将綱等、越中の戦況を報ず、87
正親町天正一〇年二月一三日1582是より先、紀伊高野山蓮華定院、駿河田中在城の依田信蕃に音信を通ず、是日、信蕃の臣塩入守直、之に答謝す、93
正親町天正一〇年二月一四日1582是より先、伊那郡松尾城の小笠原信嶺、織田信忠に降る、仍りて、是日、織田信長の将団景春・森長可等、木曽峠を越へ、伊那郡に入る、飯田城の坂西織部・保科正直、敗走す、94
正親町天正一〇年二月一六日1582木曽義昌、伊那谷を北進せる織田信忠の兵に呼応して木曽谷を鳥居峠に進み、武田勝頼の将今福昌和と戦ひて、之を破る、97
正親町天正一〇年二月一六日1582織田信忠、日向宗栄玄徳斎、等を伊那郡大島城に攻めて、之を敗走せしむ、尋いで、信忠、河尻秀隆・毛利秀頼をして、同城を守らしめ、軍を同郡飯島に移す、98
正親町天正一〇年二月一八日1582市川信房、高井郡泉竜寺に、同郡高石分の地を寄進す、99