長野県立歴史館 信濃史料

「信濃史料」 巻十五 (200頁~)


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天皇 年月日 西暦 記事
正親町天正一〇年四月五日1582森長可、小幡昌虎をして、知行を安堵せしむ、尋いで、大室左衛門等をして、知行を安堵せしむ、201
正親町天正一〇年四月五日1582木曽義昌、安曇郡大綱宗兵衛慰等の臣属を促す、203
正親町天正一〇年四月六日1582上杉景勝、水内郡飯山・長沼両城救援のため、上条宜順政繁、を信濃に遣はし、之を千坂景親等に報ず、204
正親町天正一〇年四月六日1582上杉景勝、尾崎重元に、越後鴨居村の地を宛行ふ、205
正親町天正一〇年四月七日1582木曽義昌、倉科朝軌に所領を宛行ふ、尋いで、所領を安堵せしむ、205
正親町天正一〇年四月七日1582上杉景勝、水内郡長沼城将島津忠直に、同郡上高野等の地を付し、給人に分配せしむ、206
正親町天正一〇年四月八日1582是より先、真田昌幸、織田信長に馬を贈る、是日、信長、之に答謝す、207
正親町天正一〇年四月一一日1582上条宜順、政繁、信濃・越後境の新城構築につき直江兼続に報ず、尋いで、上杉景勝、守将等の労を慰問す、207
正親町天正一〇年四月一三日1582徳川家康、伊那郡下条頼安をして、領内守備を厳にせしむ、210
正親町天正一〇年四月一三日1582小県郡定津院住持玄忠、大休、寂し、門弟欣隆、その席を嗣ぐも、同寺檀越祢津昌綱、之を斥く、210
正親町天正一〇年四月一五日1582森長可、水内郡大滝土佐守等をして、当知行を安堵せしむ、211
正親町天正一〇年四月一六日1582木曽義昌、某をして、羽生跡職を安堵せしむ、212
正親町天正一〇年四月一七日1582藤沢頼親、筑摩郡宝積寺に、寺領を寄進す、213
正親町天正一〇年四月一九日1582上杉景勝、芋川親正に、上杉景信分の地を宛行ふ、213
正親町天正一〇年四月二〇日1582上杉景勝の将狩野秀信、越中の守将島津泰忠に信濃口の無事を報ず、214
正親町天正一〇年四月二九日1582上杉景勝、西片房家をして、安曇郡仁科口を警備せしむ、敵地への往来を停めしむ、215
正親町天正一〇年1582織田信長、諏訪社に禁制を掲ぐ、215
正親町天正一〇年1582筑摩郡青柳頼長、同加賀に、同郡青柳陣屋を預け、更級郡大岡郷の代官たらしむ、216
正親町天正一〇年五月一日1582上杉景勝、常陸佐竹義重並びに芦田盛隆に、信濃等の仕置堅固なる由を報ず、216
正親町天正一〇年五月二日1582森長可、塚原五郎左衛門をして、埴科郡坂木御堂山の松茸林に於いて、草木を伐採するを停止せしむ、218
正親町天正一〇年五月二日1582上杉景勝の将直江兼続、安部令右衛門等信濃十七騎の衆をして、持城を安堵せしむ、219
正親町天正一〇年五月二日1582上杉景勝、越中に出陣せんとし、本誓寺超賢に命じて、越後の坊主等を駆集め、軍忠を励ましむ、220
正親町天正一〇年五月三日1582上杉景勝、本庄繁長に、信濃境の無事を報じ、明日、越中に出陣せんとする旨を告ぐ、 河隅忠清の書状220
正親町天正一〇年五月五日1582森長可、水内郡春日与三右衛門慰等をして、当知行を安堵せしむ、尋いで、同郡桜靭負助等をして、当知行を安堵せしむ、223
正親町天正一〇年五月一四日1582織田信長、木曽義昌の音問を謝し、木曽の仕置を厳にせしむ、225
正親町天正一〇年五月一六日1582佐久郡正安寺前住周真、実照、同寺種才良室、に国皇授戒作法を伝授す、225
正親町天正一〇年五月一六日1582高井郡興国寺住持順京、高山、順尭に自家訓訳を伝授す、226
正親町天正一〇年五月二〇日1582是より先、森長可、窪島日向守に埴科郡東条堀内分の地を宛行ふ、是日、重ねて清水東条の地を宛行ふ、226
正親町天正一〇年五月二三日1582是より先、諏訪社上社権祝矢島某、知久頼氏に玉会・音信物を贈る、是日、頼氏、矢島弁瓢をして、之に答謝せしむ、227
正親町天正一〇年五月二五日1582是より先、某、本誓寺超賢をして、上杉景勝と新発田重家と和解を斡旋せしむ、是日、重ねて、斡旋を懇請す、228
正親町天正一〇年五月二五日1582木曽義昌、安曇郡金竜寺に禁制を掲ぐ、229
正親町天正一〇年五月二七日1582織田信長の将森長可、信濃より越後に迫る、仍りて、上杉景勝、越中天神山より、春日山に兵を引く、230
正親町天正一〇年1582佐久郡岩村田竜雲寺、同郡小諸に移転せんとす、仍りて、滝川一益、同寺に寺領を寄進す、231
正親町天正一〇年六月五日1582水内郡大安寺住持正頓、南室、同寺の徒正盛安室、に仏祖正伝菩薩戒切紙を伝授す、232
正親町天正一〇年六月六日1582上杉景勝、重賞を以つて、信濃の士小幡昌虎の臣属を促す、233
正親町天正一〇年六月一〇日1582真田昌幸、四阿山宝蔵院に、白山社造営料として、四阿山山守役等を寄進す、234
正親町天正一〇年六月一二日1582小笠原貞慶、徳川家康の援を得て、信濃に還住せんとし、後庁勘兵衛慰に忠節を促す、234
正親町天正一〇年六月一二日1582真田昌幸、恩田伊賀守に、堪忍分として、小県郡上条及び上野沼田向発知の地を宛行ふ、235
正親町天正一〇年六月一三日1582上杉景勝、更級郡の人清水三河守の臣属を促す、237
正親町天正一〇年六月一三日1582上杉景勝、水内郡栗田民部介をして、本領を安堵せしむ、尋いで、信濃の諸士に知行を宛行ひ、所領を安堵せしむ、237
正親町天正一〇年六月一三日1582上杉景勝、更級郡綱島豊後守の物を贈れるを謝し、忠勤を励ましむ、243
正親町天正一〇年六月一三日1582徳川家康、諏訪社上社に、禁制を掲ぐ、244
正親町天正一〇年六月一四日1582小笠原貞慶、後庁勘兵衛慰の忠功を賞し、奉行人に列す、244
正親町天正一〇年六月一五日1582木曽義昌、諏訪社上社祢宜某の、義昌のために祈念せるを謝す、245
正親町天正一〇年六月一六日1582直江兼続、島津常陸介をして、譜代の家臣を召集め、上杉景勝に忠節を励ましむ、246
正親町天正一〇年六月一六日1582是より先、越中の唐人親広、織田信長討死等のことを上条宜順政繁、に報ず、是日、宜順、之を謝し、併せて、信濃等緒士の上杉景勝に属するもの多き由を伝ふ、246
正親町天正一〇年六月一六日1582松政、姓闕く、滝沢八兵右衛慰の忠信を賞し、知行を宛行ふ、247
正親町天正一〇年六月一六日1582真田昌幸、鎌原重春の出陣の功を賞し、本意の上、知行を宛行ふべきを約す、248
正親町天正一〇年六月一七日1582木曽義昌、大日方某の所領水内郡鬼無里の地を松本源丞等に預く、248
正親町天正一〇年六月一七日1582徳川家康、窪田助之丞に、佐久郡竜雲寺領等を宛行ふ、249
正親町天正一〇年六月一九日1582滝川一益、北条氏政の軍と上野に戦ひて敗る、尋いで、佐久郡に退く、251
正親町天正一〇年六月二〇日1582上杉景勝、水内郡飯山城将市川信房等の同城を開け渡せるを賞し、信房等をして、埴科郡海津城将春日信達に、軍忠を促さしむ、253
正親町天正一〇年六月二〇日1582上杉景勝、小幡昌虎等信濃の諸士をして、本領を安堵せしむ、尋いで、大室左衛門尉をして、本領を安堵せしむ、 志賀清直等、更級県小松原神明修理免のことにつき、小幡下野守昌虎、に報ず、254
正親町天正一〇年六月二〇日1582依田信蕃、遠江二俣より、佐久郡に帰着す、257
正親町天正一〇年六月二一日1582徳川家康、小池筑前守の信濃表に於ける調略の功を賞す、258
正親町天正一〇年六月二一日1582真田昌幸、湯本三郎右衛門尉をして、上野吾妻城を守らしめ、地を宛行ふ、258
正親町天正一〇年六月二二日1582北条氏政、伴野善九郎に佐久郡内山郷等を宛行ふ、259
正親町天正一〇年六月二三日1582越中松倉城将須田満親、上杉景勝の越中出馬を乞ふ、260
正親町天正一〇年六月二三日1582滝川一益、上洛せんとして、小諸城を発す、261
正親町天正一〇年六月二五日1582北条氏政の臣斎藤定盛、千野昌房をして、一族等を催し、氏政の信濃出兵の日を待ちて軍忠を励ましむ、262
正親町天正一〇年六月二六日1582直江兼続の使者、木曽より春日山城に帰り、木曽義昌の動静を報ず、263
正親町天正一〇年六月二七日1582上杉景勝、小幡昌虎等信濃の諸士をして、本領を安堵せしむ、264
正親町天正一〇年六月二七日1582木曽義昌、滝川一益の、諏訪に帰着せるを賀し、木曽逗留を勧む、265
正親町天正一〇年六月二七日1582越中松倉城将須田満親、同国土肥政繁の将有沢図書助の忠功を賞し、地を宛行ふ、266
正親町天正一〇年六月二八日1582上杉景勝、春日与三兵衛尉に更級郡八幡料所内の地等を宛行ふ、また、海津城将春日信達、与三兵衛尉をして、埴科郡賀々井郷を安堵せしむ、267
正親町天正一〇年六月二八日1582上杉景勝、平林正恒をして、在所の仕置油断なからしむ、268
正親町天正一〇年六月二八日1582木曽義昌、諏訪郡油川内記分等の地を、林治部右衛門に宛行ふ、269
正親町天正一〇年六月二九日1582上杉景勝、遠山丹波守に、更級郡八幡の地を宛行ひ、また、西条治部少輔をして、本領等を安堵せしむ、269
正親町天正一〇年七月二日1582是より先、小笠原洞雪、貞種、上杉景勝の援を得て、木曽義昌を筑摩郡深志城より遂ひ、同城に入る、是日、小笠原貞慶、同城を奪取せんとし、河辺与三左衛門に忠勤を促す、270
正親町天正一〇年七月三日1582上杉景勝、越後黒滝城将村山慶綱に命じて、小県郡海野に出陣せしめんとす、272
正親町天正一〇年七月三日1582徳川家康、有泉信閑等を甲府に遣はし、信濃の計策を致さしむ、273
正親町天正一〇年七月五日1582斎藤朝信等埴科郡海津城在番衆、上杉景勝に信濃の形勢を報ず、274
正親町天正一〇年七月五日1582楠川将綱等、安曇郡小谷より、上杉景勝に人質のことを報ず、275
正親町天正一〇年七月五日1582越中の神保昌国等、上杉景勝に、信濃・甲斐の経略成れるを賀し、併せて、松倉城将須田満親と共に越中静謐を計るべき旨を報ず、276
正親町天正一〇年七月五日1582上杉景勝、更級郡平林正恒をして、本領更級郡平林郷を安堵せしむ、278
正親町天正一〇年七月五日1582徳川家康の将榊原康政、筑摩郡深志調略につき、後庁勘兵衛尉の忠功を褒す、278
正親町天正一〇年七月六日1582上杉景勝、西片房家をして、本領を安堵せしめ、更に、安曇郡飯田の地等を宛行ふ、279
正親町天正一〇年七月六日1582伊那郡の諸士等、下条頼安及び徳川家康に起請文を進め、忠節を誓ふ、280
正親町天正一〇年七月七日1582徳川家康、諏訪郡に打入らんとし、駿河大宮に著陣し、下条頼安の参陣を促す、284
正親町天正一〇年七月七日1582諏訪郡高島衆、北条氏政に属せんとし、樋口杢左衛門慰を使者として、氏政に申出づ、是日、氏政、杢左衛門慰の功を賞し、所領を宛行ふべきを約す、285
正親町天正一〇年七月七日1582上杉景勝、高井郡須田対馬守等をして、本領を安堵せしむ、286
正親町天正一〇年七月八日1582小笠原玄也、貞種、二木重吉に所領を宛行ひ、また、小林妥女正をして、筑摩郡栗林郷を安堵せしむ、287
正親町天正一〇年七月九日1582徳川家康、小池筑前守の諏訪計略の功を褒す、288
正親町天正一〇年七月九日1582北条氏政、真田昌幸の臣日置五左衛門慰の功を賞し、所領を宛行ふ、289
正親町天正一〇年七月九日1582上杉景勝、芋川親正等をして、某城普請を励ましむ、289
正親町天正一〇年七月一〇日1582徳川家康、甲府に到り、伊那郡知久頼氏をして、諏訪に出陣せしむ、290
正親町天正一〇年七月一〇日1582小笠原貞慶、筑摩郡深志城を復さんとし、恩賞を以つて百瀬石見守を誘ふ、291
正親町天正一〇年七月一一日1582徳川家康、佐久郡平尾平三等に所領を宛行ふ、291
正親町天正一〇年七月一一日1582尭雅、諏訪郡仏法寺尊朝の入寺再興を祝す、 尭雅より尊朝宛の書状295
正親町天正一〇年七月一二日1582是より先、北条氏直、佐久郡小諸に依田信蕃を攻む、信蕃、同郡三沢に退く、是日、徳川家康、柴田康忠をして、信蕃を赴援せしむ、296