長野県立歴史館 信濃史料

「信濃史料」 巻十五 (400頁~)


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天皇 年月日 西暦 記事
正親町天正一〇年八月一四日1582小笠原貞慶、筑摩郡広沢寺をして、寺領を安堵せしむ、尋いで、同郡若沢寺をして、寺領を安堵せしむ、400
正親町天正一〇年八月一五日1582高梨頼親、高井郡庄内八幡宮に、社領を寄進す、 頼親の木島又次郎宛の書状402
正親町天正一〇年八月一五日1582是より先、木曽義昌の臣愛若、姓闕く、木曽定勝寺に涅槃画像を寄進す、是日、同寺住持宗球、天心、之を装潢して識語を加ふ、403
正親町天正一〇年八月一五日1582水内郡臥雲院住僧某、山城妙心寺前住宗休大休、の語録霊雲見桃録を書写す、404
正親町天正一〇年八月一六日1582小笠原貞慶、百瀬伝助に、安曇郡三溝の地を宛行ふ、405
正親町天正一〇年八月一七日1582諏訪社上社神長守矢信真、徳川家康のために、武運長久を祈る、405
正親町天正一〇年八月一九日1582徳川家康、今井兵部等の、佐久郡芦田に於ける戦功を賞す、407
正親町天正一〇年八月一九日1582下野天徳寺宝衍、佐野宗綱、佐竹義重に信濃・甲斐の戦況を報ず、408
正親町天正一〇年八月二〇日1582小笠原貞慶、中島刑部左衛門に、筑摩郡泉の地を宛行ふ、408
正親町天正一〇年八月二一日1582伊那郡高遠城主保科正直、埋橋彦助に、同郡埋橋の地等を宛行ふ、409
正親町天正一〇年八月二二日1582是より先、木曽義昌、徳川家康に属す、是日、家康、下条頼安に命じ、義昌と協力して、伊那郡飯田城の備を固めしむ、410
正親町天正一〇年八月二三日1582埴科郡海津城将村上景国、同郡練光寺をして、寺領を安堵せしむ、411
正親町天正一〇年八月二四日1582佐久竜雲寺住持全祝、北高、某に同寺領を渡付す、411
正親町天正一〇年八月二五日1582北条氏直、諏訪社上社神長守矢信真の、玉会・守符を贈れるを謝す、 北条氏直の臣高城胤辰、諏訪社上社大祝諏訪頼満頼水、の祈念を謝す、 北条氏邦・同泰邦、諏訪社上社神長守矢信真の祈祷を謝す、412
正親町天正一〇年八月二六日1582小笠原貞慶、筑摩郡宝積寺をして、同寺領を安堵せしむ、415
正親町天正一〇年八月二六日1582諏訪郡仏法寺尊朝、尾張万徳寺に於いて、山城智積院日誉より伝法潅頂を受く、415
正親町天正一〇年八月三〇日1582徳川家康、木曽義昌をして、安曇・筑摩両郡を安堵せしむ 木曽義昌、徳川家康に歳暮の祝儀を贈り、家康、之に答謝す、417
正親町天正一〇年1582佐久郡小諸城主大道寺政繁、同郡釈尊寺仏供料を没収す、419
正親町天正一〇年1582青柳頼長、青柳新吉等に、筑摩郡女淵の地を宛行ふ、420
正親町天正一〇年1582下条頼安、塩沢藤右衛門に知行等を宛行ふ、421
正親町天正一〇年1582木曽定勝寺住持宗球、天心、大般若経を同寺に納む、422
正親町天正一〇年九月二日1582徳川家康、木曽義昌の、下条頼安と共に、諏訪を攻めんとするに賛す、440
正親町天正一〇年九月二日1582小笠原貞慶、安曇郡金松寺に、同郡西牧の地を寄進し、また、新村伝右衛門に所領を宛行ふ、440
正親町天正一〇年九月四日1582上杉景勝、仁科盛直に安曇郡池田郷等の地を宛行ひ、その臣耳塚元直に采地を給す、 直江兼読、山田喜右衛門尉をして、信州酒役・麹役等のことを計らはしむ、441
正親町天正一〇年九月五日1582徳川家康、水上利光等をして、本領筑摩郡小松の地等を安堵せしむ、 家康、津金胤久等に知行を宛行ふ、443
正親町天正一〇年九月五日1582山城智積院日誉、諏訪郡仏法寺尊朝に附法す、446
正親町天正一〇年九月八日1582徳川家康、依田信蕃に扶持を送る、尋いで、信蕃、北条氏直の兵と戦ひて、獲るところの首帳を家康に献ず、446
正親町天正一〇年九月一〇日1582徳川家康、木曽義昌に誓書を送りて、その知行等安堵し、また、伊那郡箕輪の諸職を与ふ、447
正親町天正一〇年九月一一日1582真田昌幸、町田外記に、本領埴科郡東条等の地を宛行ふ、449
正親町天正一〇年九月一一日1582上杉景勝、堀内久左衛門に、水内郡三才の地を宛行ふことを約す、450
正親町天正一〇年九月一二日1582北条氏直、伊那郡大草休斎の戦功を賞す、450
正親町天正一〇年九月一六日1582諏訪頼忠、篠原六丞に、諏訪郡南大塩等の地を宛行ふ、451
正親町天正一〇年九月一七日1582是より先、高井郡大室左衛門慰等、新発田在陣の上杉景勝を存問す、是日、景勝、之に答へ、忠功を促す、451
正親町天正一〇年九月一七日1582家康、小笠原信嶺の使者を、木曽義昌の許に遣はし、佐久郡芦田の人質を受取らしめんとす、是日、家康、奥平信昌等をして、その帰路の便宜を図らしむ、452
正親町天正一〇年九月一九日1582小笠原貞慶、安曇郡沢渡盛忠をして、沢渡の地を安堵せしむ、453
正親町天正一〇年九月二〇日1582諏訪頼忠、小平儀大夫に、有賀右衛門慰兵衛分の地を宛行ふ、454
正親町天正一〇年九月二〇日1582北条氏政、武田勝頼の遺臣佐久郡の人大井河内守に所領を宛行ふ、454
正親町天正一〇年九月二〇日1582伊那郡文永寺僧宗然、駿河宝幢院に於いて、潅頂常行心要法を書写す、455
正親町天正一〇年九月二二日1582諏訪社上社神長守矢信真、徳川家康の戦勝を同社に祈る、是日、家康の将日下部定吉、之を謝す、456
正親町天正一〇年九月二三日1582徳川家康、平井出清右衛門をして、本領諏訪郡真志野の地を安堵せしむ、457
正親町天正一〇年九月二三日1582高井郡興国寺住持順尭、嫩察に曹洞宗通幻派天真門徒の諸切紙を伝授す、457
正親町天正一〇年九月二四日1582上杉景勝、島津下々斎をして、水内郡長沼城の普請を励ましむ、459
正親町天正一〇年九月二四日1582小笠原貞慶、下条頼安に誓詞を送り、後庁久親に不届の所為あらば召放つべきを約す、460
正親町天正一〇年九月二四日1582小笠原貞慶、百瀬雅楽助等に、所領筑摩郡埴原等の地を宛行ふ、460
正親町天正一〇年九月二四日1582犬飼貞知、岩垂忠助をして、筑摩郡原の地を安堵せしむ、461
正親町天正一〇年九月二五日1582木曽義昌、千村俊政に、伊那郡小野等の地を与ふ、461
正親町天正一〇年九月二七日1582北条氏邦、諏訪社上社神宮寺の、氏邦の為めに祈祷せるを謝し、併せて、以後の祈念を請ふ、462
正親町天正一〇年九月二八日1582徳川家康、加津野信昌・依田信蕃等をして、真田昌幸に説きて、家康に属せしむ、仍りて是日、家康、昌幸に所領を宛行ひ、また信昌等の功を賞す、462
正親町天正一〇年九月三〇日1582知久頼氏、諏訪社上社権祝矢島某に、佐久郡出陣により社参なり難きを弁じ、玉会等を送れるを謝す、470
正親町天正一〇年九月三〇日1582依田信蕃、丸山左衛門太郎に、佐久郡本意の上、郡中大工を沙汰せしむ、471
正親町天正一〇年1582徳川家康、甲斐新府にありて、北条氏直の軍と屢兵を交ふ、諏訪郡五味太郎左衛門、功を顕はす、472
正親町天正一〇年1582後庁久親、弥彦社に、伊那郡小野の地を寄進す、474
正親町天正一〇年一〇月三日1582北条氏政、小県郡祢津昌綱に、甲斐手塚等の地を宛行ふ、474
正親町天正一〇年一〇月三日1582真田昌幸、山口掃部介に上野玉泉寺分の地を宛行ふ、尋いで、湯本義見斎に同国羽尾の地を宛行ふ、475
正親町天正一〇年一〇月三日1582北条氏政、諏訪郡慈雲寺に禁制を掲ぐ、476
正親町天正一〇年一〇月五日1582諏訪頼忠、小沢源七郎に、諏訪郡上原古町屋敷等の地を宛行ふ、477
正親町天正一〇年一〇月五日1582村上景国、埴科郡明徳寺をして、寺領を安堵せしめ、また、同寺領同郡練光寺分の替地として、豊楽寺分を宛つ、477
正親町天正一〇年一〇月六日1582上杉景勝、新発田より帰陣せる旨を、夜交左近助に報ず、478
正親町天正一〇年一〇月八日1582保科正直、同名善兵衛に領地を宛行ふ、479
正親町天正一〇年一〇月八日1582木曽義昌、原平左衛門慰等の戦功を賞す、 義昌の原平左衛門慰宛年貢請取状及び書状479
正親町天正一〇年一〇月一〇日1582小笠原貞慶、安曇郡倉科朝軌等に、曽山和泉遺跡等を宛行ふ、481
正親町天正一〇年一〇月一二日1582徳川家康、諏訪郡五味太郎左衛門に、甲斐塚河郷内の地等を宛行ふ、482
正親町天正一〇年一〇月一三日1582真田昌幸、湯本三郎右衛門慰に小県郡海野郷内の地等を宛行ひ、また、石井喜右衛門慰等をして知行を安堵せしむ、尋いで、三郎右衛門慰をして、上野羽尾に在城せしむ、483
正親町天正一〇年一〇月一三日1582北条氏規、吉田新左衛門に、信濃の兵の、駿河に侵入せんとするを報じ、備を厳にせしむ、485
正親町天正一〇年一〇月一八日1582知久頼氏、平沢道性に書を送り、その子藤左衛門の討死せるを悔み、藤左衛門の弟勘四郎を陣中より返すべきを告ぐ、486
正親町天正一〇年一〇月一九日1582真田昌幸、北条氏政の党祢津昌綱の兵を、小県郡祢津に攻む、尋いで、北条氏直、昌綱をして、備を固めしむ、487
正親町天正一〇年一〇月一九日1582真田昌幸、折田軍兵衛に、上野横尾の地を宛行ふ、487
正親町天正一〇年一〇月二〇日1582諏訪頼忠、諏訪郡内大工の、屋敷伝馬役を、旧規の如くせしむ、、488
正親町天正一〇年一〇月二〇日1582直江兼続、西片房家をして、安曇郡仁科口の警戒を厳にせしむ、488
正親町天正一〇年一〇月二四日1582是より先、伊那郡高遠の保科正直、酒井忠次を介して、徳川家康に属す、是日、家康、正直に伊那半郡を与へんことを約す、489
正親町天正一〇年一〇月二四日1582下条頼安、甲府在陣の徳川家康を在問す、是日、家康、之に答へて、併せて戦況を報ず、490
正親町天正一〇年一〇月二四日1582望月印月斎、一峯、村田但馬守に、小県郡有坂等の地を宛行ふ、491
正親町天正一〇年一〇月二五日1582北条氏政、真田昌幸謀叛にあたり、祢津昌綱の忠信を致せるを賞し、小県郡海野領内の地を宛行ふ、491
正親町天正一〇年一〇月二五日1582真田昌幸、小県郡信綱寺に、寺内門前の緒役を免ず、492
正親町天正一〇年一〇月二六日1582北条氏政、樋口木工左衛門慰に、筑摩郡塩尻等の地を宛行ふ、493
正親町天正一〇年一〇月二七日1582小笠原貞慶、倉科朝軌に、安曇郡内の地を宛行ふ、494
正親町天正一〇年一〇月二八日1582真田昌幸、恩田伊賀守に、上野向発知等の地を宛行ひ、戦功を促す、494
正親町天正一〇年一〇月二九日1582是より先、徳川家康、織田信雄等の勧により、北条氏直と和を媾じ、上野沼田を以つて、氏直の佐久郡・甲斐都留郡に換へ、また、家康の女を以つて氏直に嫁せしめんことを約す、是日、質を交す、 佐久郡依田信季等、紀伊高野山蓮華定院に音信を通ず、495