長野県立歴史館 信濃史料

「信濃史料」 巻十五 (500頁~)


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天皇 年月日 西暦 記事
正親町天正一〇年一一月二日1582上杉景勝、小谷衆大所豊後守の、安曇郡千国城攻略の功を褒す、502
正親町天正一〇年一一月三日1582松岡頼貞、竹松又助に、伊那郡市田郷内の地を宛行ふ、503
正親町天正一〇年一一月四日1582佐久郡前山城主伴野某、徳川家康の命に応ぜず、是日、柴田康忠等、依田信蕃と共に、之を攻めて降す、尋いで、同郡高棚・小田井・岩村田の諸城を攻む、504
正親町天正一〇年一一月五日1582筑摩郡会田衆等、上杉景勝の援を得て同郡矢久城に篭る、是日、小笠原貞慶、諸将を遣はして、之を攻む、尋いで、城将堀内越前守討死し、落城す、 貞慶、筑摩郡青柳城を攻む、507
正親町天正一〇年一一月六日1582上杉景勝、更級郡牧島足軽衆に、安曇郡仁科の内等々力等の地を宛行ふ、513
正親町天正一〇年一一月六日1582徳川家康、松平左近丞に、信濃の敵状を報じ、同人の戦功を促す、514
正親町天正一〇年一一月七日1582徳川家康、塚原六右衛門尉等の信濃等の本領を改め、甲斐に於いて替地を宛行ふ、尋いで、家康、今井主計の信濃の本領を改め、甲斐に於いて替地を宛行ふ、514
正親町天正一〇年一一月九日1582徳川家康、平原内記をして、本領伊那郡平出の地等を安堵せしむ、515
正親町天正一〇年一一月九日1582小笠原貞慶、北沢孫左衛門慰等に、安曇郡内の地等を宛行ふ、516
正親町天正一〇年一一月一〇日1582諏訪社上社神長守矢信真、同社に神頭を寄進せんことを、真田昌幸に促す、是日、昌幸、来年を待つて果さんことを答報す、517
正親町天正一〇年一一月一二日1582徳川家康、小山田藤四郎の佐久郡岩村田に於ける戦功を賞す、尋いで、依田信蕃、藤四郎に同郡内山等の地を宛行ふ、517
正親町天正一〇年一一月一三日1582伊那郡松岡頼貞、中平善三郎に同郡市田の地を宛行ふ、519
正親町天正一〇年一一月一四日1582依田信蕃、佐久郡高見沢庄左衛門に、所領を宛行ふ、519
正親町天正一〇年一一月一五日1582諏訪頼忠、徳川家康の帰陣を祝し、馬等を贈る、是日、家康、之に答謝す、519
正親町天正一〇年一一月一七日1582徳川家康、諏訪郡神戸平六に、甲斐長塚の内等の地を宛行ふ、520
正親町天正一〇年一一月二〇日1582上杉景勝、水内郡飯縄社に、同郡上野等の地を寄進す、520
正親町天正一〇年一一月二一日1582小笠原貞慶、竹内縫左衛門に、安曇郡飯田の内等の地を宛行ふ、522
正親町天正一〇年一一月二二日1582徳川家康、佐久郡平尾平三に忠節を促す、522
正親町天正一〇年一一月二四日1582真田昌幸、小県郡河原綱家の戦功を賞し、甲斐の内の地を宛行ふ、523
正親町天正一〇年一一月二四日1582諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、524
正親町天正一〇年一一月二七日1582徳川家康、矢崎又右衛門慰等の信濃に於ける所領を改替し、甲斐に於いて所領を給す、524
正親町天正一〇年一一月二八日1582徳川家康、甲斐善光寺の寺領及び諸法度を、先規の如く、水内郡の人栗田永寿の計に任す、525
正親町天正一〇年1582青柳頼長、同加賀に、筑摩郡青柳の地及び問屋を宛行ふ、526
正親町天正一〇年1582松岡貞利、今牧八郎左衛門慰をして、伊那郡座光寺の内の地を安堵せしむ、527
正親町天正一〇年1582伊那郡箕輪城主藤沢頼親、徳川家康の命に従はず、仍りて、家康の将保科正直、攻めて城を抜く、527
正親町天正一〇年一二月一日1582岩井信能、益村源七郎に名乗一字を許す、528
正親町天正一〇年一二月二日1582上杉景勝、徳川家康の佐久郡に入ると聞き、飯山城将岩井信能等をして、守備を厳にせしむ、528
正親町天正一〇年一二月六日1582徳川家康、萩原市之慰をして、高井郡井上等の地を安堵せしむ、530
正親町天正一〇年一二月八日1582上杉景勝、村上景国をして、郡司職を安堵せしむ、530
正親町天正一〇年一二月九日1582徳川家康、五味管十郎等信濃の士に、甲斐に於いて所領を宛行ふ、531
正親町天正一〇年一二月一二日1582上杉景勝、仁科盛直・所伊賀守等に所領安堵を約す、533
正親町天正一〇年一二月一三日1582諏訪社上社、同社明年神使御頭を定む、534
正親町天正一〇年一二月一六日1582真田昌幸、丸山土佐守に命じ、上野伊賀馬場の地を、恩田伊賀守に返付せしむ、534
正親町天正一〇年一二月一七日1582依田信蕃、縫殿左衛門姓闕く、等に、駿河の内に於いて所領を宛行ふ、535
正親町天正一〇年一二月二四日1582諏訪社上社神長守矢信真、小笠原貞慶に玉会及び守符・音信を送り、且つ、所領につき請ふところあり、是日、貞慶の臣溝口貞秀、之に答報す、 大炊助定慶、諏訪社上社神領のことにつき、同社神長に書を送る536
正親町天正一〇年1582筑摩郡青柳頼長、伊勢大神宮に、同郡会田の地を寄進す、537
正親町天正一〇年1582佐久郡竜雲寺住持全祝、北高、道心芳庵、姓闕く、居士のために秉炬仏事を勤む、 全祝、妙円通安、大姉・貞林森渓、大姉のために、秉炬仏事を勤む、538
正親町天正一〇年1582諏訪社上社、同社本年頭役料を注す、541
正親町天正一一年正月五日1583知久頼氏、平沢道性をして、本領を安堵せしめ、その子勘四郎に、伊那郡富岡の地及び父の居屋敷を給す、543
正親町天正一一年正月九日1583上杉景勝、保科豊後守の請を容れ、高井郡保科一跡の地を宛行ふ、544
正親町天正一一年正月一二日1583徳川家康、その将井伊直政に命じて、兵を伊那郡高遠口に出さしむ、544
正親町天正一一年正月一二日1583仁科盛直、筑摩郡潮神明社に神田を寄進し、宮下彦右衛門尉をして、旧の如く社務を勤めしむ、546
正親町天正一一年正月一六日1583青柳頼長、伊勢皇大神宮に、筑摩郡苅屋原等の地を寄進す、546
正親町天正一一年正月二一日1583依田信季、佐久郡井出佐左衛門尉に所領を宛行ふ、547
正親町天正一一年正月二三日1583真田昌幸、宮下孫兵衛に、小県郡祢津領内の地等を給す、548
正親町天正一一年正月二九日1583小笠原貞慶、小山佐渡守等の戦功を賞す、549
正親町天正一一年閏正月五日1583高梨頼親、伊勢外宮御師広田大夫の祓等を贈れるを謝す、 源政親より広田大夫宛の書状549
正親町天正一一年閏正月一四日1583上杉景勝、岩井信能を備中守となす、551
正親町天正一一年閏正月二四日1583小笠原貞慶、安曇郡満願寺をして、寺領を安堵せしむ、551
正親町天正一一年閏正月二六日1583諏訪頼忠、諏訪郡慈雲寺をして、同寺領を安堵せしむ、尋いで、頼忠、同寺に禁制を掲ぐ、551
正親町天正一一年閏正月二八日1583諏訪頼忠、諏訪郡安国寺門前衆に令し、同寺山林の伐採を禁ず、553
正親町天正一一年閏正月二九日1583真田昌幸、飯島市之丞等の、小県郡丸子に於ける戦功を賞す、553
正親町天正一一年1583上杉景勝、上倉治部少輔に、水内郡飯山城在番を命じ、その軍役を定む、556
正親町天正一一年1583上杉景勝、領内領主等をして、安田筑前守家中の者を勘過せしむ、557
正親町天正一一年二月三日1583上杉景勝、大井田房中に、水内郡飯山の内の地を宛行ふ、558
正親町天正一一年二月七日1583是より先、上杉景勝、誓書を織田信雄・羽柴秀吉に送りて好を通ず、是日、秀吉も、誓書を須田満親に送り、景勝をして、速に兵を越中に出さしむ、558
正親町天正一一年二月七日1583是より先、知久頼氏、三石左近助新左衛門、を成敗す、是日、頼氏、左近助の子亀太郎を召出し、その本領内の地を安堵せしむ、また、吉沢新助に三石左近助領内の地を割きて宛行ふ、559
正親町天正一一年二月八日1583依田信蕃、左衛門太郎姓闕く、をして、佐久郡阿江木領中の番匠を安堵せしむ、561
正親町天正一一年二月九日1583須田信正、伊勢皇大神宮に、高井郡井上郷内の地を寄進す、 須田道賢丸の広田勘右衛門尉宛書状561
正親町天正一一年二月九日1583知久頼氏、松島清次郎に、伊那郡下村の内の地を宛行ふ、尋いで、斎藤与三右衛門尉に、同郡知久平並びに飯沼の地を宛行ふ、562
正親町天正一一年二月一〇日1583越後春日山城守将黒金景信、上杉景勝に、越中松倉守将須田満親の意を伝へ、速に飛騨の諸士を誘致すべきを告ぐ、563
正親町天正一一年二月一〇日1583小笠原信嶺、中島新三郎に、伊那郡山村の内山中分・田中居屋敷分等を宛行ふ、564
正親町天正一一年二月一二日1583是より先、徳川家康の将依田信蕃、阿江木能登守を、佐久郡田口城に攻めて之を陥る、是日、家康、信蕃に命じ、佐久郡阿江木の守兵を減ぜしむ、 貞祥寺戦災に遭ふ、565
正親町天正一一年二月一二日1583小笠原貞慶の臣赤沢式部少輔・古厩因幡守・塔原三河守等、謀叛を企つ、是日、貞慶、式部少輔をして自殺せしむ、尋いで、因幡守・三河守をも誘殺す、568
正親町天正一一年二月一二日1583依田信守、岡谷庄左衛門をして、無主の地を開発せしむ、575
正親町天正一一年二月一四日1583直江兼続、越後祢知城将西片房家に書を送り、安曇郡仁科衆をして、軽々しく出兵せしめざらんことを命ず、576
正親町天正一一年二月一八日1583木曽義昌、酒井彦右衛門尉の忠節を賞す、576
正親町天正一一年二月一八日1583知久頼竜、伊那郡法全坊をして、同郡阿島の内河原の地を安堵せしむ、577
正親町天正一一年二月二〇日1583上条宜順、政繁、須田満親より、越中の情報を得て、之を上杉景勝に通ず、577
正親町天正一一年二月二二日1583徳川家康の将依田信幡、佐久郡を平定せんとし、同郡・岩尾城を攻む、是日、信幡の弟信幸討死し、尋いで、信幡も戦死す、578
正親町天正一一年二月二二日1583是より先、水内郡長沼城将島津忠直、同郡葛山衆と相争ふ、是日、上杉景勝、古老をして、その論所を決せしめ、また葛山衆の請を容れ、その妻子を越後府内に移らしむ、584
正親町天正一一年二月二四日1583木曽義昌、木曽原平左衛門に、牧野西光寺の内の地を宛行ふ、586
正親町天正一一年二月二五日1583小笠原長時、陸奥会津に於いて卒す、586
正親町天正一一年1583松岡貞利、今牧八郎左衛門尉に、伊那郡座光寺の内の地を宛行ふ、597