長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻十六 (1頁~)
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正親町
天正一一年三月二日
1583
北条氏政、佐久郡佐藤助丞の所領を安堵し、軍役を勤めしむ
1
正親町
天正一一年三月三日
1583
小笠原貞慶、安曇郡千国十人衆に、千国跡職を与へ、同郡小谷筋を警戒せしむ、
2
正親町
天正一一年三月五日
1583
小県郡寿清、天窓、姓闕く、亡夫宗玉光桂、居士追薦のため、自繡の法被を同郡東昌寺に寄進す、
2
正親町
天正一一年三月六日
1583
小笠原貞慶、大平孫左衛門尉をして、安曇郡大平の地を安堵せしむ、 孫左衛門尉、安曇郡勝野源助の、所領を押領せるを貞慶に訴へ、貞慶、源助をして、孫左衛門尉に所領を返さしむ、
3
正親町
天正一一年三月八日
1583
真田昌幸、伊勢豊受大神宮に、小県郡諏訪部等の地を寄進す、
4
正親町
天正一一年三月一〇日
1583
徳川家康、佐久・小県両郡に出兵せんとし、之を真田昌幸に報ず、
5
正親町
天正一一年三月一〇日
1583
小笠原貞慶、平林弥右衛門下人の諸役を免ず、
6
正親町
天正一一年三月一二日
1583
真田昌幸、片岡助兵衛に、小県郡諏訪部等の地を宛行ふ、
6
正親町
天正一一年三月一三日
1583
岩井信能等、水内郡古間村に、伝馬役・普請人足役等を免ず、
7
正親町
天正一一年三月一四日
1583
村上景国の部下屋代秀正、上杉景勝に叛き、徳川家康に属さんとす、是日、家康、秀正に更級郡を宛行ひ、忠勤を促す、
8
正親町
天正一一年三月一四日
1583
是より先、上杉景勝、越中松倉城将須田満親に守備を差図す、是日、景勝、満親の越中無事の報を得、之を上条宜順に報ず、 景勝の宜順宛の書状
9
正親町
天正一一年三月一四日
1583
諏訪頼忠、某の、諏訪社上社神宮寺上坊職相続を許す、
13
正親町
天正一一年三月一五日
1583
加津野昌春、信昌、島津忠直を誘ひ、徳川家康に臣属せしめんとす、
14
正親町
天正一一年三月一五日
1583
高梨頼親、高井郡庄内八幡宮神主をして、領内の檀那中へ御祓及び巻数を頒布せしむ、
15
正親町
天正一一年三月一七日
1583
羽柴秀吉、伊勢及び江北に戦況を、上杉景勝の将須田満親に報ず、
15
正親町
天正一一年三月二一日
1583
是より先、真田昌幸、埴科郡虚空蔵山に上杉景勝の兵を攻めて之を破る、島津忠直の部下駒沢主税助、景勝の軍に加はり戦死す、是日、景勝、主税助の忠功を賞し、忠直をして、その跡式を計らしむ、
17
正親町
天正一一年三月二一日
1583
徳川家康、佐久・小県両郡平定のため、兵を出さんとす、是日、家康、知久頼氏の弟頼竜に、甲斐参陣を命ず、
18
正親町
天正一一年三月二四日
1583
小笠原貞慶、溝口貞秀に、筑摩郡塩尻等の地を宛行ふ、
19
正親町
天正一一年三月二六日
1583
是より先、徳川家康、松平依田、康国をして、父信蕃の遺跡を嗣がしむ、是日、康国、同信守の同心衆を定む、
19
正親町
天正一一年三月二六日
1583
真田昌幸、市場源七郎に、上野中条の地を宛行ふ、
22
正親町
天正一一年三月二八日
1583
徳川家康、諏訪頼忠に諏訪郡を与ふ、
22
正親町
天正一一年三月二八日
1583
上野厩橋城将北条高広、直江兼続に書を送り、真田昌幸の北条氏政と絶つを報ず、
23
正親町
天正一一年
1583
是より先、徳川家康の将柴田康忠、諏訪郡高島城代となる、是月、諏訪社上社神長守矢信真、玉会・守符を康忠に送り、家康への取成を請ふ、
25
正親町
天正一一年
1583
上杉景勝、越後より水内郡長沼への往還につき、横道通行を禁ず、
26
正親町
天正一一年四月一日
1583
上杉景勝、埴科郡海津城将屋代秀正の、同城を去るにより、水内郡飯山城将岩井信能をして、海津城に入らしむ、尋いで、信濃の諸将をして秀正を撃たしむ、 諏訪社上社神長守矢信真、秀正に玉会・守符を贈り、秀正、これに答謝す、
27
正親町
天正一一年四月一日
1583
知久頼竜、宮下筑後守に、伊那郡川野郷の地を宛行ふ、 頼竜の宮下彦三郎宛の手形及び妙音院宛の書状
30
正親町
天正一一年四月三日
1583
徳川家康、北畠信雄の臣飯田半兵衛尉に書を送り、その甲斐に入り、佐久・小県両郡の敵を撃たんがため、自ら甲斐に在陣中なるを報ず、
32
正親町
天正一一年四月五日
1583
佐久郡佐藤織部丞、碓氷峠に還住して、北条氏政のために力を致さんことを誓ふ、是日、氏政の将大道寺政繁、之を褒し、向後の協力を求む、
33
正親町
天正一一年四月八日
1583
上杉景勝、信濃衆に命じて、更級郡荒砥城に屋代秀正を攻めしむ、是日、秀正、城を明けて遁る、
34
正親町
天正一一年四月九日
1583
小笠原貞慶、小沢縫殿介に、安曇郡大妻等の地を宛行ふ、
37
正親町
天正一一年四月一〇日
1583
諏訪頼忠、諏訪郡随竹軒某に、所領を給す、
38
正親町
天正一一年四月一二日
1583
徳川家康、屋代秀正の帰属を賞し、真田昌幸・依田康国と共に計略せしむ、尋いで、柴田康忠を遣はし、秀正と共に調略にあたらしむ
38
正親町
天正一一年四月一二日
1583
上杉景勝、徳川家康の、埴科郡虚空蔵山を攻めんとするを聞き、水内郡飯山城将岩井信能に命じ、虚空蔵山城に援兵を送らしむ、
40
正親町
天正一一年四月一三日
1583
真田昌幸、小県郡海ヶ淵に城を築く、是日、上杉景勝、信濃諸将をして、之を攻めしめんとし、また島津泰忠をして、埴科郡虚空蔵山に移り戦を監せしむ、
41
正親町
天正一一年四月一三日
1583
徳川家康、下条頼安をして、城普請等を励ましむ
42
正親町
天正一一年四月一五日
1583
知久頼氏、伊那郡玉泉寺をして、寺領を安堵せしむ
43
正親町
天正一一年四月一七日
1583
徳川家康、佐久郡内山平三をして、同郡内山等の地を安堵せしむ、 家康、坂本忠豊をして、甲斐の信濃替地分の地等を安堵せしむ、
44
正親町
天正一一年四月一九日
1583
徳川家康、甲斐善光寺をして、寺領を安堵せしむ
45
正親町
天正一一年四月二一日
1583
小笠原貞慶、安曇郡観勝院をして、寺領を安堵せしむ
46
正親町
天正一一年四月二四日
1583
直江兼続、水内郡大日方佐渡守に、上杉景勝の、埴科郡海津城に出馬せるを報じ、安曇郡千見の地の備を固めしむ
46
正親町
天正一一年四月二六日
1583
小笠原貞慶、平出与三兵衛をして、本領を安堵せしめ、その軍役を定む、また、中村源助・中田源次郎に知行を与ふ、
47
正親町
天正一一年四月二七日
1583
上杉景勝、筑摩郡麻績城を攻めて、之を陥る、
49
正親町
天正一一年四月二八日
1583
上杉景勝、更級郡牧島城将芋川親正の勧めにより、岩井信能をして、親正と共に安曇郡仁科を計略せしむ、尋いで、景勝、西片房家をして、仁科口の通行を止めしむ、
50
正親町
天正一一年
1583
村上景国、本領安堵及び信濃静謐を、伊勢豊受大神宮に祈る、
51
正親町
天正一一年五月二日
1583
小笠原貞慶、安曇郡成就院をして、寺領を安堵せしめ、禁制を掲ぐ、
52
正親町
天正一一年五月八日
1583
木曽義昌、三村勝親の伊那郡箕輪に於ける忠節を賞す、
53
正親町
天正一一年五月一二日
1583
小田切四郎太郎、上杉景勝に属し、安曇郡仁科に於いて、小笠原貞慶の兵と戦ひ、之を破る、尋いで、景勝、四郎太郎の戦功を賞す、
54
正親町
天正一一年五月一三日
1583
小笠原貞慶、某に、安曇郡宮本の地を宛行ふ、
54
正親町
天正一一年五月一三日
1583
真田昌幸、上野羽尾城将湯本三郎右衛門尉をして、同国領内市中に月五駄の荷物を勘過せしむ
55
正親町
天正一一年五月一四日
1583
埴科郡海津城代村上景国、謀叛の嫌疑あるによりて、越後に召還さる、
55
正親町
天正一一年五月一七日
1583
小笠原貞慶、安曇郡沢渡盛忠に本領を安堵せしむ、尋いで、また戦功を励ましむ、
56
正親町
天正一一年五月一八日
1583
小笠原貞慶、沢渡十人衆に、安曇郡宮本の地を宛行ふ、
57
正親町
天正一一年五月一九日
1583
上杉景勝、更級郡を侵す、屋代秀正等、邀撃して、之を破る、是日、徳川家康、秀正の軍功を褒す、布施景直、岡田十左衛門尉に、更級郡岡田の地を宛行ふべきを約す、
58
正親町
天正一一年五月二三日
1583
上杉景勝、大室源次郎をして、本領を安堵せしむ、
61
正親町
天正一一年五月二六日
1583
諏訪頼忠、尾張万徳寺曽朝をして、諏訪郡仏法寺領等の地を支配せしむ、
61
正親町
天正一一年五月二六日
1583
北条氏政、北上野に入る、仍りて、是日、真田昌幸、湯本三郎右衛門尉を同国羽尾城に移す、
62
正親町
天正一一年五月二八日
1583
是より先、徳川家康の将酒井忠次、栗田永寿の進退を大須賀胤清に任す、是日、重ねて、之を命ず、
63
正親町
天正一一年六月五日
1583
是より先、織田信忠、甲斐善光寺如来を美濃に遷す、徳川家康、之を甲斐に還さんとし、是日、三河岡崎に遷す、
64
正親町
天正一一年六月一六日
1583
小笠原貞慶、三河岡崎城主石川数正の臣江戸衛門七に書を送りて、川中島辺の上杉景勝押領地を取返すべきを約し、且つ佐久・奥両郡への新道開鑿の命に応じ難きを申す、
65
正親町
天正一一年六月一六日
1583
直江兼続、島津常陸介に命じ、信濃より召連れし譜代の者共を信濃に返し、戦功を励ましむ、
66
正親町
天正一一年六月一七日
1583
真田昌幸、矢沢綱頼に、上野沼田在城を命じ、城領として、同国臼根の地を宛行ふ、
66
正親町
天正一一年六月二一日
1583
佐久郡正安寺周真、実照、山居図大事を種才良室、に伝授す、
67
正親町
天正一一年六月二四日
1583
小笠原貞慶、浅野久右衛門に本領を安堵し、新知行として、安曇郡西山の内の地等を宛行ふ、
68
正親町
天正一一年
1583
諏訪頼忠、諏訪社下社に、千手堂灯明料所を寄進す、
68
正親町
天正一一年七月二日
1583
小笠原貞慶、安曇郡大沢寺に、同郡松河等の地を寄進し、禁制を掲ぐ、
69
正親町
天正一一年七月三日
1583
佐々成政、上杉景勝の、新発田重家を撃つに乗じて、越後西浜新地を襲はんとすとの風聞あり、仍りて、景勝、水内郡飯山城将岩井信能等をして、春日山城に入り、守備を厳にせしむ、
70
正親町
天正一一年七月一九日
1583
上杉景勝、上野厩橋城将北条高広等の、同国沼田城将矢沢綱頼・金子某等を勧誘せるを褒す、
72
正親町
天正一一年七月二〇日
1583
小笠原貞慶、孫左近をして、筑摩郡塔原蔵人万疋の地を知行せしむ、 貞慶、軍役衆に材木を徴す、
73
正親町
天正一一年七月二三日
1583
木曽義昌、三村勝親等に知行を宛行ふ、
74
正親町
天正一一年七月二八日
1583
依田昌秀、佐久郡安養寺に寺領を寄進す、
75
正親町
天正一一年
1583
小笠原貞慶、松山織部佑に、筑摩郡庄内の地を宛行ふ、
77
正親町
天正一一年
1583
上杉景勝、その領内に徳政令を布く、
78
正親町
天正一一年八月一日
1583
上杉景勝、更級郡の人綱島頼繁をして、上条宜順の命に随ひ、城普請を励ましむ、 景勝の綱島頼繁宛書状
79
正親町
天正一一年八月七日
1583
是より先、日岐盛武・穂高内膳佐、小笠原貞慶に異心なきを誓ふ、是日、貞慶、盛武等の身上について保証を与へ、また、盛武に安曇郡押野の地を宛行ふ、
80
正親町
天正一一年八月七日
1583
諏訪頼忠、諏訪郡山田新七郎並びに踏出の文右衛門尉に所領を宛行ふ、
82
正親町
天正一一年八月一〇日
1583
是より先、高野山蓮華定院、望月印月斎一峯、に音信を通ず、是日、印月斎、之に答報す、
83
正親町
天正一一年八月一一日
1583
小笠原貞慶、日岐盛武の戦功を賞し、日岐遺跡を宛行ふ、また、明日、当所務不作に依り米を給す、
84
正親町
天正一一年八月一四日
1583
小笠原貞慶、二木重吉をして、安曇郡西牧領代官たらしむ、
84
正親町
天正一一年八月一四日
1583
小笠原貞慶、北沢対馬守等に、領内に於ける熊狩を許す、
85
正親町
天正一一年八月一五日
1583
知久頼氏、伊那郡興禅寺に禁制を掲ぐ、
86
正親町
天正一一年八月一八日
1583
本願寺の僧素休、上杉景勝の将須田満親等に書を送りて、越後滞留中の厚誼を謝す、
87
正親町
天正一一年八月二〇日
1583
某、伊那郡平沢勘四郎を、勘右衛門尉となす
88
正親町
天正一一年八月二一日
1583
上条宜順、越中の人唐人親広に新発田攻撃の状を告げ、且つ、須田満親と議して、厳重に守備すべきを命ず、
88
正親町
天正一一年八月二三日
1583
是より先、仁科盛直、その同心衆の安曇郡日岐城に於いて謀叛するに与せず、同城を退去す、 是日、上杉景勝、盛直の忠節を賞す、
89
正親町
天正一一年八月三〇日
1583
木曽義昌、伊那郡三室神子等に、神領を寄進す、
90
正親町
天正一一年
1583
伊那郡文永寺再興普請始日時と定、 知久頼氏、文永・安養両寺を再興し、正親町天皇、頼氏の功を賞す、 文永寺太元護摩堂建立の勧進書成る、
91
正親町
天正一一年九月六日
1583
水内郡臥雲院正頓、南室、正盛安室、に半紙之大事を伝授す、
94
正親町
天正一一年九月一二日
1583
真田昌幸、河原綱家の上野吾妻に於ける戦功を賞し、小県郡武石等の地を宛行ふ、また、出浦上総守の服属を賞し、堪忍分として同郡武石の地を宛行ふ、
95
正親町
天正一一年九月一三日
1583
諏訪頼忠、河西佐渡守に所領を宛行ふ、
96
正親町
天正一一年九月一四日
1583
西片房家、山田甚右衛門尉に、安曇郡黒倉の地を宛行ふ、
97
正親町
天正一一年九月一六日
1583
上杉景勝、岩井信能をして、水内郡飯山城を修理せしむ、
97
正親町
天正一一年九月一八日
1583
高梨頼親、木島又次郎の高井郡新井等の地を宛行ふ、
98
正親町
天正一一年九月一九日
1583
諏訪頼忠、藤森又兵衛に、諏訪郡下宮内の地を宛行ひ、門番以下の役を勤めしむ、
99
正親町
天正一一年九月二三日
1583
上杉景勝、越後祢知城将西片房家の戦功を賞し、安曇郡仁科遺跡を宛行ふ、
99