長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻十六 (400頁~)
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正親町
天正一四年二月一二日
1586
市川為綱、高井郡安田諏訪社・同飯綱社に、神領を寄進す、
400
正親町
天正一四年二月一二日
1586
真田昌幸、矢島主殿助に、佐久郡岩村田の地を宛行ふ、尋いで、北沢勘解由等に、知行を宛行はんことを約す、 昌幸、矢沢綱頼父子及び湯本三郎右衛門尉等に、小県郡海野の地等を宛行ふ、
401
正親町
天正一四年二月一六日
1586
真田昌幸、神尾淡路守等に、佐久郡芦田の地を宛行ふ、
404
正親町
天正一四年
1586
伊那郡富田村善十郎等、同郡虎岩村つくゑ原畑を請作せんとし、虎岩村役人に連判状を出す、 林久兵衛、鉄砲鋳型の借用を、主膳姓闕く、に申入る、
405
正親町
天正一四年
1586
伊那郡開善寺住持宗販、速伝、保寿寺の徒宗玕碧沢の請に応じて、道号を与へ、その頌をつくる、
407
正親町
天正一四年三月三日
1586
保科正直、三村勝親に、本領安堵を約す、
408
正親町
天正一四年三月一一日
1586
松平依田、康国、紀伊高野山蓮華定院を、領内住民の宿坊と定め、佐久郡春日郷の屋敷地等を寄進す、
410
正親町
天正一四年三月一二日
1586
平原全真、紀伊高野山蓮華定院に、佐久郡岩村田の地を寄進す、 蓮華定院、佐久郡軽沢登安に音信を送り、登安、これに応へ、祈念を依頼す、
411
正親町
天正一四年三月一三日
1586
望月印月斎、一峯、立神新九郎をして、同甚六郎の名跡を嗣がしめ、佐久郡大玉郷大宮神職等を安堵せしむ、
413
正親町
天正一四年
1586
小笠原貞慶、溝口貞秀に、筑摩郡稲倉及び岡田郷内の地を宛行ふ、
413
正親町
天正一四年
1586
是より先、倉科朝軌死す、是日、溝口貞秀、朝軌の名跡をその後家の計ひに任す、
414
正親町
天正一四年四月一〇日
1586
小県郡国分寺僧良真、近江成菩提院に於いて、六即義を書写す、 良真、三周枕月集を書写す、
415
正親町
天正一四年四月一六日
1586
徳川家康、佐久郡松平依田、新六郎に、名乗一字を許す、
418
正親町
天正一四年四月一七日
1586
望月印月斎、一峯、紀伊高野山蓮華定院をして、佐久郡矢島の地を安堵せしむ、 伴野信豊、紀伊高野山蓮華定院に日牌料を寄進す、
418
正親町
天正一四年四月二六日
1586
信濃の僧武蔵皎月院存麟、玉田、寂す、
419
正親町
天正一四年五月三日
1586
諏訪頼忠、河西和泉守に、諏訪郡内の地を宛行ふ、
420
正親町
天正一四年五月一〇日
1586
小笠原貞慶、倉科盛軌をして、兄朝軌の名跡を嗣がしめ、安曇郡内の地を宛行ふ、
421
正親町
天正一四年五月一〇日
1586
是より先、所伊賀守、松平民部助と争論に及び、知行に付き不満あるに依り、他国に移らんとす、是日、須田満親、堪忍分を与へて伊賀守を慰留す、
422
正親町
天正一四年五月一一日
1586
北条氏直、氏邦等をして、上野沼田城を攻めしめんとす、真田昌幸の将矢沢綱頼、之と決戦せんとす、是日、氏邦、綱頼の投降を促す、
423
正親町
天正一四年五月一六日
1586
是より先、伊勢外宮御師広田勘右衛門尉、岩井信能に御祓・太麻等を贈る、是日、信能、之を謝し、上杉景勝に随ひて上洛の時、参宮すべき旨を告ぐ、
425
正親町
天正一四年五月二七日
1586
真田昌幸、湯本三郎右衛門尉等の、上野吾妻に赴き、北条氏邦に備へんとするを嘉す、 昌幸の湯本三郎右衛門尉等宛の書状 真田信幸の河原綱家宛の書状
426
正親町
天正一四年六月一〇日
1586
小笠原貞慶、仁科衆に、安曇郡千見城の普請を命じ、普請奉行二木盛正等の指図に従はしむ、
429
正親町
天正一四年六月二〇日
1586
是より先、上杉景勝、上洛す、是日、景勝、夜交左近助に書を送り、近く帰国せんとする旨を告げ、留守を堅固に致さしむ、 大谷吉継、水内郡大滝土佐守に音信を通ず、
430
正親町
天正一四年六月二〇日
1586
徳川家康、伊那郡下条六郎次郎に、名乗一字を許す、
432
正親町
天正一四年六月二二日
1586
伊那郡文永寺僧俊意、摩利支天法を書写す、
432
正親町
天正一四年六月二三日
1586
本願寺光寿、教如、上杉景勝との間に事なきを、信濃・越後の門徒衆に報ず、
433
正親町
天正一四年
1586
筑摩郡徳雲寺住持殊白、圭獄、語録を書す、
433
正親町
天正一四年七月一〇日
1586
高井郡興国寺住持順京、高山、その徒順尭に嗣書焼却切紙を伝授す、
434
正親町
天正一四年七月一四日
1586
上杉景勝、小田切左馬助をして、本領を安堵せしむ、
435
正親町
天正一四年七月一六日
1586
普賢坊、法印に任ぜらる、
435
正親町
天正一四年七月一七日
1586
徳川家康、真田昌幸を小県郡上田に撃たんとし、駿府まで出馬す、尋いで、羽柴秀吉の斡旋に依り、之を延引す、
436
正親町
天正一四年
1586
佐久郡竜雲寺前住持全祝、北高、正久遠窓、大姉・秀董梅窓、大姉のために、秉炬仏事を行ふ、 全祝、久余慶雪、居士等のために秉炬仏事を行ふ、
436
正親町
天正一四年八月三日
1586
羽柴秀吉、真田昌幸を討たんとし、上杉景勝に令して、昌幸に支援するを禁ず、
442
正親町
天正一四年八月九日
1586
羽柴秀吉、徳川家康の臣水野惣兵衛に書を送り、信濃より浜松に帰りて、真田昌幸討伐のこと等につき、家康に伝へしむ、
443
正親町
天正一四年八月一六日
1586
羽柴秀吉、上杉景勝に、信濃郡割に付いて意を伝え、併せて、徳川家康と恊力すべきを命ず、
445
正親町
天正一四年八月一八日
1586
真田昌幸、高槻備中守等に命じて、小県郡願行寺の後住職を定めしめ、併せて、同寺門前屋敷等の諸役を免除せしむ、
446
正親町
天正一四年
1586
法印某、佐久郡泉光坊に、両貝緒允可のことを取成さんとす、
447
正親町
天正一四年九月六日
1586
羽柴秀吉、木村吉清を、上杉景勝の許に遣はし、越後新発田并びに真田昌幸の属城上野沼田表等のことにつき指図す、
447
正親町
天正一四年九月一八日
1586
是より先、小笠原貞慶、部下将士を越後に送り、榛葉但馬守・細萱長知両人の指揮に従はしむ、
448
正親町
天正一四年九月一九日
1586
小笠原貞慶の臣渋田見政長、有沢善助に、水内郡竹生の地を宛行ふ、
449
正親町
天正一四年九月二五日
1586
羽柴秀吉、上杉景勝に書を送り、真田昌幸成敗の儀を停む、
450
正親町
天正一四年九月二六日
1586
海津城将須田満親、林部宮内助に、更級郡岡田・高田の地を給す、
452
正親町
天正一四年九月二八日
1586
菅沼定利、伊那郡知久平諏訪社に、同郡今田・飯沼の地を寄進す、 林政延、伊那郡知久平諏訪社に神田を寄進す、
452
正親町
天正一四年一〇月一一日
1586
菅沼定利、伊那郡知久平八幡社に、同郡今田・飯沼両郷の地を寄進す、
453
正親町
天正一四年
1586
諏訪社上社神長守矢信真の知行目録、成る、
454
後陽成
天正一四年一一月四日
1586
是より先、羽柴秀吉、関東のことを徳川家康に委ね、また、上杉景勝をして、真田昌幸・小笠原貞慶・木曽義昌の所領を家康に渡さしむ、是日、秀吉、景勝の尽力を嘉し、また、昌幸の罪を免じ、昌幸をして、知行を安堵せしむ、
456
後陽成
天正一四年一一月一一日
1586
上杉景勝、色部長真をして、新発田重家の侵入に備へしめ、また、信濃表の経略のことを報ず、
457
後陽成
天正一四年一一月二〇日
1586
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋いで、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
458
後陽成
天正一四年一一月二七日
1586
真田昌幸の室、小県郡蓮華院の埴科郡海津に於ける忠節を賞し、地を宛行ふ、
459
後陽成
天正一四年一二月二日
1586
前佐久郡竜雲寺中興開山全祝、北高、寂す、
459
後陽成
天正一四年一二月四日
1586
佐久郡郷村貫高帳、成る、
469
後陽成
天正一四年一二月一三日
1586
諏訪社上社、同社明年の神使御頭を定む、
473
後陽成
天正一四年一二月二一日
1586
須田満親、高井郡常楽寺・満滝寺を再興す、
474
後陽成
天正一四年一二月二四日
1586
是より先、諏訪社上社神長守矢信真、同社神領のことを、小笠原貞慶に訴ふ、是日、貞慶の臣溝口貞秀、明春落着せしむべきを約す、
475
後陽成
天正一四年
1586
諏訪社上社、同社今年の頭役料を注す、
478
後陽成
天正一四年
1586
上杉景勝、須田長義等の軍役を定む、
479
後陽成
天正一五年正月四日
1587
豊臣秀吉、上杉景勝をして、真田昌幸に上洛を促さしむ、
483
後陽成
天正一五年正月五日
1587
是より先、伊勢豊受大神宮御師広田大夫、同宮祓及び大麻等を高梨頼親に送る、是日、頼親、之に答謝す、
483
後陽成
天正一五年正月一四日
1587
溝口貞秀、浅野久衛門尉の所領安曇郡借馬等の地を検地し、その年貢を定む、
484
後陽成
天正一五年正月二〇日
1587
上杉景勝、安曇郡榛葉但馬守の、越後新発田に参陣せる労を犒ふ、
485
後陽成
天正一五年二月一一日
1587
松平依田、康国、佐久郡貞祥寺をして、寺領を安堵せしむ、
486
後陽成
天正一五年二月三〇日
1587
豊臣秀吉、真田昌幸に、信濃の矢留を命ず、
487
後陽成
天正一五年
1587
伊那郡南原本帳、成る、
487
後陽成
天正一五年三月一八日
1587
小笠原貞慶・真田昌幸等、豊臣秀吉の命に依り、駿府に徳川家康に謁す、
490
後陽成
天正一五年
1587
牧島城代芋川親正、更級郡天宗寺に禁制を掲ぐ、
491
後陽成
天正一五年四月二八日
1587
高井郡興国寺住持順京、山高、その徒順尭に勃陀勃地大事等を伝授す、
491
後陽成
天正一五年
1587
青柳頼長、筑摩郡麻績神明宮神主宮下彦助に、地を寄進す、尋いで、また、同郡花顔寺にも地を寄進す、
493
後陽成
天正一五年五月三日
1587
北条氏直、佐久郡佐藤主水佐をして、所領を安堵せしむ、
494
後陽成
天正一五年五月二四日
1587
須田満親、所伊賀守に、埴科郡東条の地を給す、
495
後陽成
天正一五年六月三日
1587
小笠原貞慶、贄川平八に、その所領筑摩郡西洗馬・小野沢両郷の替地を給す、
495
後陽成
天正一五年六月二五日
1587
徳川家康、分国中の金掘衆に条書を下し、諸役を免ず、
496
後陽成
天正一五年
1587
小笠原貞慶、某をして、屋敷・下人等を元の如く請取らしむ、
497
後陽成
天正一五年八月一四日
1587
真田昌幸、小県郡大法師祢宜大夫に神領を寄進す、
497
後陽成
天正一五年八月一五日
1587
安曇郡満願寺住持尊応、観音経読誦を行ふ、 尊応、大般若経及び大乗妙典の読誦を行ふ、
497
後陽成
天正一五年八月二五日
1587
真田昌幸、河原綱家に、唐沢庄助知行の山を預く、
499
後陽成
天正一五年九月一五日
1587
朝日重政、伊那郡淵井市左衛門の知行地を注す、 某貫高覚書
499