長野県立歴史館 信濃史料

「信濃史料」 巻十六 (100頁~)


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天皇 年月日 西暦 記事
正親町天正一一年九月二七日1583高井郡井上源六郎、海津城将上条宜順の催促に応じ出陣す、是日、上杉景勝、源六郎の功を賞す、100
正親町天正一一年九月二八日1583徳川家康、祢津昌綱をして、信濃の本領を安堵せしめ、且つ、同松鷗軒の養子鶴千世丸に、甲斐黒沢・駿河厚原の地を宛行ふ、 昌綱、甲斐在陣の家康に書を送りて戦況を存問し、家康、之に答報す、100
正親町天正一一年九月二八日1583是より先、屋代秀正、陣中の徳川家康を存問す、是日、家康、之に答ふ、102
正親町天正一一年1583小県郡安楽寺の寺領帳、成る、103
正親町天正一一年一〇月六日1583佐久郡貞祥寺住持全林、旃室、寂す、106
正親町天正一一年一〇月一三日1583真田昌幸、長井権助に、小県郡武石の地を宛行ふ、107
正親町天正一一年一〇月一三日1583上杉景勝、岩井信能等をして、国境の備を厳にせしむ、108
正親町天正一一年一〇月一七日1583小笠原貞慶、中島刑部左衛門に、知行及び屋敷等を宛行ふ、108
正親町天正一一年一〇月二九日1583諏訪頼忠、佐久郡諏訪社権祢宜堀米某の、同郡野沢郷内同社神領明年の年貢を減ず、109
正親町天正一一年一一月七日1583諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋いで、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、110
正親町天正一一年一一月七日1583上杉景勝、高井郡常楽寺・安源寺を、同郡円慶寺に寄進し、両寺を郡司不入となす、111
正親町天正一一年一一月一二日1583諏訪社上社神長官守矢信真、徳川家康の将菅沼定利に神領の寄進を請ふ、是日、定利、之に答へ、信濃参向の時、寄進すべきを約す、 守矢信真の諏訪郡境についての訴状111
正親町天正一一年一一月三〇日1583小笠原貞慶、日岐盛武に、安曇郡内の地を宛行ふ、114
正親町天正一一年1583上杉景勝、板屋光胤に、越国より信濃への運送荷物毎月拾疋・拾駄の通過を許す、 景勝、光胤の帰国にあたり、所々領主をして、宿送及び雪踏の人夫を出さしむ、 頼清、姓闕く、越後弥知仁王堂の関所番安曇郡千国丹波守をして、毎月荷五駄宛勘過せしむ、115
正親町天正一一年一二月七日1583上杉景勝、西条綱治をして、甥源太の、本領越後新府の内中郷の地を安堵せしむべきを約す、116
正親町天正一一年一二月一七日1583保科正直、伊那郡建福寺に禁制を掲ぐ、117
正親町天正一一年1583諏訪社上社、同社今年頭役料を注す、118
正親町天正一二年正月六日1584上杉景勝、更級郡松田盛直をして、海津城将上条宜順の指図に従ひ、軍功を励ましむ、121
正親町天正一二年正月二〇日1584下条頼安、小笠原信嶺のために、伊那郡松尾城に誘殺せらる、 義演の小笠原信嶺宛の書状121
正親町天正一二年正月二八日1584芋河親正、水内郡飯縄社をして、更級郡小島田の同社社領を安堵せしむ、124
正親町天正一二年正月二九日1584真田昌幸、高橋右馬允等の戦功を賞す、125
正親町天正一二年1584小笠原幸松丸、貞政、三河に在りて、その父貞慶に音信を送り、年賀を祝す、126
正親町天正一二年二月一三日1584諏訪頼忠、諏訪郡小井弖政澄をして、所領を安堵せしむ、128
正親町天正一二年二月一五日1584依田昌朝、佐久郡法華堂祐源に、同郡志賀の地を与ふ、 蓮華定院、昌朝に音信を送り、昌朝、これに答ふ、128
正親町天正一二年二月一九日1584小笠原貞慶、二木盛正に所領を宛行ふ、130
正親町天正一二年二月二一日1584朝日重政、三石亀太郎の被官等に、城地の替地を与ふ、130
正親町天正一二年二月二六日1584木曽義昌、千村孫八郎に扶持を加へ、軍役を勤めしむ、 木曽義昌、王滝某等に蔵米を給す、131
正親町天正一二年二月二八日1584須田信正、芦河囚獄等に高井郡中条銚子塚の地を宛行ふ、 松尾信是の芦河藤三宛の書状132
正親町天正一二年二月二九日1584安曇郡仁科衆、小笠原貞慶に属し、水内郡鬼無里を攻取る、尋いで、貞慶、之を犬飼久知等に報じ、備を厳重にせしむ、133
正親町天正一二年三月九日1584下条牛千代、康長、伊那郡瑞光院に、菩提所草創の資として、蔵春軒分の地を寄進す、135
正親町天正一二年三月一一日1584真田昌幸、右近助姓闕く、の後家に、堪忍分として地を宛行ふ、135
正親町天正一二年三月一八日1584是より先、小笠原貞慶の兵、上杉景勝の属城筑摩郡青柳城を攻めて城将を逐ふ、是日、海津城将上条宜順、大日方佐渡守等をして、青柳城将に助勢せしむ、136
正親町天正一二年三月二一日1584木曽義昌、島崎監物に地を宛行ふ、137
正親町天正一二年三月二六日1584羽柴秀吉、佐竹義重に尾張等の形勢を報じ、木曽義昌・上杉景勝と共に、徳川家康に対し調略せしめんことを求む、137
正親町天正一二年三月二六日1584羽柴秀吉、山村良候の忠功を褒す、141
正親町天正一二年三月二八日1584小笠原貞慶、筑摩郡麻績・青柳両城を攻む、尋いで、また、之を攻む、徳川家康、貞慶の功を褒す、142
正親町天正一二年三月二九日1584是より先、木曽義昌、尾張在陣の羽柴秀吉を存問す、是日、秀吉、同国小牧山に於ける徳川家康の陣況を義昌に報ず、尋いで、また、同国長久手の戦況を報ず、143
正親町天正一二年1584佐久郡平安寺周真、実照、拈華図大事を誾雄勝岩、に伝授す、145
正親町天正一二年四月一日1584是より先、高井郡須田信正・市川信房等、羽尾源六郎を授けて、上野丸岩・三原の両城を奪取す、上杉景勝、信正の軍功を賞し、併せて、安曇郡千見城番を命ず、信正、之を辞するにより、是日、直江兼続、信正を諭し、景勝の命に従はしむ、146
正親町天正一二年四月一日1584小笠原貞慶、木曽贄川又兵衛の忠節を賞し、奈良井治部少輔闕所地等を宛行ふ、尋いで、蔵沢久兵衛にも、筑摩郡比奈倉の地を宛行ふ、147
正親町天正一二年四月二日1584木曽義昌、木曽黒沢・児野等の郷民に令して、軍功を致さしむ、 義昌、木曽鹿島社を造営せんとし、千村淡路守・細田藤六をして、榑百五十丁宛を出さしむ、 義昌、木曽鹿島社祢宜をして、祈祷を励ましむ、149
正親町天正一二年四月五日1584高井郡須田満親等、伊勢豊受大神宮に神楽を奉納す、 須田景実の広田備後守宛の書状152
正親町天正一二年四月一〇日1584祢津昌綱、欣隆を小県郡定津院住持となし、寺領を安堵せしむ、154
正親町天正一二年四月一三日1584上杉景勝、越中有沢図書助等に書を与へ、信濃口鎮定に依り、近く越中に出馬せんとする旨を告ぐ、156
正親町天正一二年四月一四日1584小笠原貞慶、伊勢皇大神宮の加護を謝し、筑摩郡次柳の地を寄進す、157
正親町天正一二年四月一九日1584上杉景勝、海津城に出陣すとの報あり、仍りて、小笠原貞慶、景勝の属城麻績城を攻めんとし、仁科衆を更級郡篠木尾へ、犬甘久知を筑摩郡睡峠へ出陣せしむ、158
正親町天正一二年四月二〇日1584上杉景勝、埴科郡皆神山諏訪社をして、社領を安堵せしむ、161
正親町天正一二年四月二一日1584是より先、上杉景勝の軍、小笠原貞慶の軍を、筑摩郡麻績城に迎へ討ちて之を破る、是日、景勝、検使島津泰忠に書を送り、泰忠及び侍衆の戦功を褒す、162
正親町天正一二年四月二二日1584諏訪社上社祢宜大夫等、玉会を諏訪頼忠に贈る、是日、頼忠、之に答謝し、普請成就以下の祈念を求む、168
正親町天正一二年四月二五日1584上杉景勝、海津城に兵を引く、是日、小笠原貞慶、更級郡境に兵を遣はして、敵情を監視せしむ、169
正親町天正一二年四月二五日1584上杉景勝、信濃の平定成れるにより、新発田重家を撃たんがため、出陣せんとする旨を、築地資豊に告ぐ、尋いで、また、色部長眞にも之を告ぐ、170
正親町天正一二年四月二六日1584上杉景勝、新発田重家討伐のため越後下郡に出馬せんとし、信濃奥四郎の諸士を、埴科郡虚空蔵山に移して敵に備へしむ、175
正親町天正一二年四月二七日1584小笠原貞慶の臣溝口貞秀、日岐盛武・宇留賀与兵衛を犬甘久知の陣に遣はし、協力して敵に備へんことを申し出づ、176
正親町天正一二年四月二七日1584屋代秀正、尾張長久手に在陣中の徳川家康を存問す、是日、家康、之に答へ、併せて油断を警む、177
正親町天正一二年1584上杉景勝、更級郡塩崎に禁制を掲ぐ、177
正親町天正一二年1584伊那郡開善寺持宗販、速伝、智玉崑梯、の請に応じて、道号を与へ、その二大字を授く、178
正親町天正一二年五月七日1584上杉景勝、板屋光胤に、所領更級郡桑原の替地として、同郡塩崎分を宛行ふ、178
正親町天正一二年五月一七日1584上杉景勝、松田民部助・保科豊後守をして、更級郡稲荷山に在城せしめ、それぞれ知行を宛行ふ、また、岩井靱負尉の忠節を賞し、高井郡吉田の地等を宛行ふ、 小笠原貞慶、保科豊後守に、年賀を祝し、物を贈る、179
正親町天正一二年五月一八日1584望月印月斎、一峯、村田但馬守に、佐久郡大日向の地を宛行ふ、181
正親町天正一二年五月一八日1584市川信房、高井郡泉竜寺に、同郡犬飼郷内の地を寄進す、181
正親町天正一二年五月二〇日1584諏訪頼忠、淳栄をして、諏訪郡三精寺を支配せしむ、182
正親町天正一二年五月二一日1584諏訪社上社権祝矢島某、伊那郡保科正直に玉会を贈る、是日、正直、之を謝す、182
正親町天正一二年五月二三日1584上杉景勝、信濃より越後春日山に還る、183
正親町天正一二年五月二九日1584島津忠直、水内郡妙正寺に、寺領を寄進す、185
正親町天正一二年1584青柳頼長、筑摩郡麻績神明宮神主宮下彦右衛門をして、神役を安堵せしむ、185
正親町天正一二年六月四日1584羽柴秀吉、佐竹義重に書を送り、上杉景勝・木曽義昌等の秀吉と入魂なるに依り、安んじて北条氏直を攻略すべき旨を報ず、186
正親町天正一二年六月一一日1584是より先、羽柴秀吉、上杉景勝に人質を求む、仍りて、上条宜順、人質を致す、是日、景勝、宜順に、軍役等諸役を免除す、187
正親町天正一二年六月一五日1584諏訪頼忠、大工牛山長家等をして、諏訪社上社の神輿を再造せしめ、是日、同社に納む、190
正親町天正一二年六月一五日1584諏訪社上社神宮寺住持祐元、同社宝殿に法華経を、同社神長守矢信実等、鎌等を奉納す、192
正親町天正一二年六月二七日1584上杉景勝、松田盛直に、更級郡八幡宮社領等を宛行ひ、同郡稲荷山に在城せしむ、また、その子孫三郎をして、仁科惣領職を嗣がしむ、195
正親町天正一二年七月一九日1584小笠原貞慶の臣溝口貞秀、筑摩郡くるみ沢・原山の堺を定め、之を同郡埴原百瀬雅楽助等に示す、196
正親町天正一二年七月二二日1584佐久郡大宮雅義、同郡八葉山大明神に太鼓を寄進す、196
正親町天正一二年七月二八日1584高井郡興国寺住持順京、高山、将奕に付法す、197
正親町天正一二年七月三〇日1584望月印月斎、一峯、佐久郡原宮に社領を寄進す、197
正親町天正一二年1584青柳頼長、筑摩郡福満寺に同郡桑山郷の地を寄進し、宝林坊をして、之を再興せしむ、198
正親町天正一二年八月三日1584是より先、上杉景勝、信濃に入る、是日、景勝、小田切左馬助の、小笠原貞慶の兵を更級郡稲荷山口・青木島に迎撃して破れるを賞す、199