長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻十八 (200頁~)
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後陽成
慶長二年三月一日
1597
浅間山、大爆発す、
200
後陽成
慶長二年三月二五日
1597
真田昌幸、関口角左衛門より麻年貢を請取る、
200
後陽成
慶長二年四月二二日
1597
神祗管領長上吉田兼治、佐久郡新海社祠官友野朝繁をして、神事祭礼を勤めしめ、併せて、富士・三島参詣人の先達たらしむ、
201
後陽成
慶長二年五月一〇日
1597
神祗管領家、諏訪社上社大祝諏訪頼広の、斎場所修理料を進むるに依り、請取状を出す、尋いで、神祗管領長上吉田兼治、頼広に衣冠着帯を允可す、
201
後陽成
慶長二年六月一五日
1597
豊臣秀吉、甲斐善光寺如来を、京都方広寺大仏殿に遷さんとし、諸大名に、路次送迎を命ず、
202
後陽成
慶長二年七月六日
1597
僧応其、興山、紀伊高野山金剛峯寺年預に書を送り、甲斐善光寺如来入洛のことを報ず、
204
後陽成
慶長二年七月一八日
1597
信濃善光寺如来、入洛す、
206
後陽成
慶長二年八月一〇日
1597
伊那郡大草郷、慶長元年分年貢を皆済す、
209
後陽成
慶長二年八月一二日
1597
石川三長康長、の臣堀江道有、筑摩郡青柳伝右衛門をして、麻の抜荷を取締らしむ、
210
後陽成
慶長二年八月二四日
1597
高井郡箕作村庄屋五右衛門、同村北野社祠官大部某の越後に窂浪せんとするに依り、同社及び檀那の支配を平林村の志摩守に委す、
211
後陽成
慶長二年八月二六日
1597
神祗管領長上吉田兼興、高井郡墨坂神社及び八幡宮祠官山岸吉房に、風折烏帽子・狩衣着用を允可す、
212
後陽成
慶長二年八月二七日
1597
曹洞宗了庵門徒、佐久郡竜雲寺に宗規を頒つ、 総持寺五院より竜雲寺宛の書状 仙石盛長、曹洞宗僧侶等の、薄墨綸旨を以つて、猥りに禅師号を称するものあるを停止せしむ、
213
後陽成
慶長二年九月一〇日
1597
須田満親、小河原式部少輔をして、埴科郡八幡社社領を安堵せしむ、
220
後陽成
慶長二年九月一〇日
1597
諏訪社上社前神長守矢頼真、卒す、
220
後陽成
慶長二年九月一五日
1597
是より先、仙石盛長、秀康、秀久、岩間忠輔等に命じ、佐久郡芦田新町を造らしむ、是日、忠輔等、その成就を祈願す、
222
後陽成
慶長二年
1597
高井郡大聖院恵秀、同郡飯綱社の天狗像を作る、
223
後陽成
慶長二年一〇月一八日
1597
後陽成天皇、高井郡常楽寺住持寿清天庵、に、岑月円光禅師の号を援けらる、
223
後陽成
慶長二年一〇月二〇日
1597
豊臣秀吉、京極高知の山城伏見の亭に臨む、
224
後陽成
慶長二年一一月八日
1597
是より先、豊臣秀吉、下野宇都宮国綱の封を奪ひ、浅野長政をして、同領内を検地せしむ、是日、秀吉、真田昌幸をして、長政に合力せしむ、
225
後陽成
慶長二年一一月八日
1597
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋いで、重ねての御渡あり、
226
後陽成
慶長二年一一月一四日
1597
上杉景勝、信濃に紙を送らんとし、信濃口諸所領主をして、之を宿送せしむ、
226
後陽成
慶長二年
1597
信濃の人舜祐、心覚坊、備前吉備津宮摂社本宮を造営す、
227
後陽成
慶長二年
1597
木曽水無神社、同社社領年貢・諸役の次第を記す、
227
後陽成
慶長三年正月一〇日
1598
豊臣秀吉、上杉景勝を陸奥会津に封ず、信濃出身の将士、多く之に随伴す、 景勝の須田長義宛の書状
230
後陽成
慶長三年
1598
芋川親正、更級郡興禅寺をして、寺領を安堵せしむ、
242
後陽成
慶長三年二月一〇日
1598
上杉景勝、今城次左衛門尉等をして、景勝の旧領並びに埴科郡海津・水内郡長沼両城を、石田三成の奉行衆に渡さしめ、併せて、会津移転につき条目を頒つ、
243
後陽成
慶長三年二月一二日
1598
更級郡八幡宮祠官松田盛直、上杉景勝に従ひ、陸奥会津に移らんとし、同宮神主職を同縫殿助に預く、
249
後陽成
慶長三年二月一九日
1598
小笠原信嶺、武蔵本庄城に卒す、尋いで、伊那郡開善寺宗販、速伝、信嶺室に書を送り、慰問す、
250
後陽成
慶長三年二月二一日
1598
日野根高吉、諏訪郡神戸村与右衛門に、同村年貢のこと等を沙汰す、
263
後陽成
慶長三年三月八日
1598
山城石清水八幡宮、豊臣秀吉に、同宮領信濃四郷の安堵を請ふ、
264
後陽成
慶長三年三月一八日
1598
木曽御岳権現の滝神主、釜之神祭文を書す、
264
後陽成
慶長三年三月二二日
1598
真田昌幸、小山田某を壱岐守に推挙す、
266
後陽成
慶長三年三月二八日
1598
伊那郡飯田の京極高知、伊那郡光前寺に寺領を寄進す、
266
後陽成
慶長三年三月三〇日
1598
是より先、上杉景勝、村上景国を陸奥塩松に在城せしむ、是日、直江兼続、同地代官舟橋名兵衛等に命じて、景国の入部を援けしむ、
267
後陽成
慶長三年
1598
伊那郡開善寺住持宗販、速伝、善呼鷹睹、居士姓闕くのために逆修秉炬仏事を行ふ、、
268
後陽成
慶長三年四月一日
1598
是より先、豊臣秀吉、関一政を、川中島に移す、是日、一政、水内郡妙証寺及び浄興寺をして、寺領を安堵せしむ、
270
後陽成
慶長三年四月二日
1598
仙石盛長、秀康、秀久、佐久郡竜雲寺に地を寄進す、
271
後陽成
慶長三年四月八日
1598
浅間山爆発し、参詣人、多く焼死す、
272
後陽成
慶長三年四月二九日
1598
真田昌幸、関口角左衛門尉より、金子を請取る、
272
後陽成
慶長三年
1598
上杉景勝、越後新潟湊に令し、平林正恒等分の兵糧米を京都に輸送せしむ、
273
後陽成
慶長三年五月一二日
1598
是より先、掘秀治、越後に移封せらる、是日、本誓寺に書を送り、その出迎を辞退す、 掘直寄等、森助兵衛等をして、本誓寺に寺地を渡さしむ、
274
後陽成
慶長三年六月二〇日
1598
真田昌幸、関口角左衛門尉より、小県郡長窪・和田の問屋役金を請取る、
275
後陽成
慶長三年七月九日
1598
豊臣秀吉の将石川光吉、高井郡五閑村検地を行ふ、尋いで、同古田重勝、同郡中島村の検地を行ふ、
276
後陽成
慶長三年七月一五日
1598
森島近政、埴科郡皆神山の検地を免じ、之を同山熊野権現に寄進す、
283
後陽成
慶長三年八月二日
1598
是より先、上杉景勝、同謙信の廟所を陸奥会津に移さんとし、岩井信能等を越後に遣はす、是日、景勝、越後大乗寺等に之を報ず、
284
後陽成
慶長三年八月三日
1598
神祗管領長上吉田兼治、高井郡若宮八幡宮祠官伝田家重に、風折烏帽子・狩衣着用を允可す、、
285
後陽成
慶長三年八月四日
1598
豊臣秀吉、田丸直昌に、川中島の地を宛行ふ、 田丸直昌、鳥羽伝内の、直昌下国に就いて、物を贈れるを謝す、
286
後陽成
慶長三年八月一七日
1598
是より先、豊臣秀吉、甲斐善光寺如来を京都に移せるも、霊夢に依り、是日、之を信濃善光寺に送る、明日、秀吉、卒す、 後陽成天皇、善光寺本尊の儀に就いて、勅使及び綸旨を下され、家康、之に奉答す、 秀吉の真田信幸・同昌幸宛の書状 秀吉下総古河姫君の下国にあたり、信濃等路次の諸大名をして、人夫等調へしむ、
287
後陽成
慶長三年八月一七日
1598
山城伏見に騒動起るに依り豊臣氏五奉行、諸士の兵具を帯し、主家に集るを禁じ、之を真田信幸等に通達す、
296
後陽成
慶長三年九月一三日
1598
京極高知の臣落合長次、伊那郡随雅寺に、寺領を寄進す、
298
後陽成
慶長三年九月一四日
1598
石川光吉、高井郡万竜寺に、寺領を寄進す、
298
後陽成
慶長三年九月一五日
1598
田丸直昌、沢田加兵衛等に山守を命ず、
299
後陽成
慶長三年九月一九日
1598
諏訪社下社神宮寺僧俊翁、憲能房、八千枚表白并結願作法を書写す、尋いで、八千枚日記等を書写す、
299