長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻十八 (500頁~)
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後陽成
慶長五年九月八日
1600
徳川秀忠、上洛のため兵を小諸に引かんとし、この旨を森忠政に伝へ、忠政をして、境目を堅固にせしむ、
508
後陽成
慶長五年九月一一日
1600
徳川秀忠、森忠政に美濃参陣を促す、尋いで、秀忠、忠政をして、家康の命に従ひ、領界の仕置を待つて参陣すべきを告ぐ、
509
後陽成
慶長五年九月一五日
1600
徳川秀忠、森忠政の上洛を停め、境目の位置を致さしむ、
512
後陽成
慶長五年九月一六日
1600
徳川秀忠、美濃に参陣せんとし、小諸を発し、下諏訪を経て木曽に入り、是日、山村良勝の館に泊す、
515
後陽成
慶長五年九月二六日
1600
是より先、徳川家康、石田三成等の軍を美濃関ヶ原に破り、近江大津に帰陣す、是日本多正信、之を真田信幸等に報ず、
517
後陽成
慶長五年
1600
小笠原信之、徳川秀忠に随ひ、下野より信濃に入り、秀忠より美濃岩村城・木曽妻篭の防備を命ぜらる、
521
後陽成
慶長五年一〇月一日
1600
森忠政、水内郡勝願寺に寺敷地を寄進す、
524
後陽成
慶長五年一〇月一日
1600
是より先、石田三成、真田昌幸・信幸に音信す、是日、三成、徳川家康のために斬首せらる、
524
後陽成
慶長五年一〇月二日
1600
徳川家康、山村良候を木曽谷中の代官となす、
529
後陽成
慶長五年一〇月五日
1600
横内藤太等、筑摩郡西洗馬村に年貢進納を命ず、
531
後陽成
慶長五年一〇月六日
1600
伊達政宗、上杉景勝領陸奥簗川城を攻めんとす、仍りて、景勝、岩井信能等をして防備につき談合せしむ、
532
後陽成
慶長五年一〇月八日
1600
水内郡北条村、森忠政に同村の検地帳を指出す、
533
後陽成
慶長五年一一月一七日
1600
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋いで、重ねての御渡あり、
542
後陽成
慶長五年一一月二九日
1600
是より先、佐久郡前山村庄五郎・せん夫婦、身代を以つて七大夫より金を借用す、是日、年期を終り、庄五郎の奉公せんとするにあたり、せん、請文を出す、
542
後陽成
慶長五年
1600
是より先、徳川家康、保科正光に、越前北庄の城番を命ず、是月、封を下総多胡より、伊那郡高遠の旧領に転ず、
544
後陽成
慶長五年一二月七日
1600
森忠政、更級郡康楽寺をして、寺領等を安堵せしめ、また水内郡飯綱社に、社領を寄進す、
544
後陽成
慶長五年一二月一三日
1600
徳川家康、真田昌幸を、紀伊高野山に幽閉す、是日、昌幸、同地に赴く、 昌幸の書状 真田家の小県郡分限帳、成る、
545
後陽成
慶長五年一二月二六日
1600
真田信幸、小県郡白鳥明神をして、社領を安堵せしむ、
575
後陽成
後陽成年一二月二八日
1586
高井郡綿内村、当年年貢を皆済す、
575
後陽成
後陽成年
1586
松平依田、康真、康寛、諏訪社上社に、佐久郡本意等のことを祈る、 康真、下野小山に至り、結城秀康に臣従す、
576
後陽成
後陽成年
1586
是より先、徳川家康、小笠原信之に伊那郡松尾を還付せんとす、信之、之に不服を申す、仍りて是月、家康、小笠原長巨に之を宛行ふ、 家康、伊那郡の人市岡忠次・宮崎安重・朝日受永等を旧領伊那郡に移す、
578
後陽成
後陽成 是歳
1586
徳川家康、森忠政等信濃緒大名をして、所領を安堵せしむ、
583
後陽成
後陽成 是歳
1586
信濃の人諏訪頼水等、上野高崎の城番を勤む、尋いで、小県郡上田城番を勤む、
585