長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻十八 (400頁~)
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後陽成
慶長五年四月六日
1600
某伝介、伊賀姓闕く、等に、水内郡大豆島の田地を預けられんことを請ふ、
404
後陽成
慶長五年五月八日
1600
是より先、徳川家康、仙石盛長秀康、秀久、と、上杉景勝を陸奥会津に攻めんことを議す、是日、家康、盛長をして、佐久郡小諸城に帰り、北国筋鎮撫に当らしむ、仍りて、景勝、岩井信能等部下の将士に書を送り、去就を決せしむ、
404
後陽成
慶長五年五月一八日
1600
徳川秀忠、森忠政の起居を候せしに答へ、陸奥会津の上杉景勝の動静を報ず、
406
後陽成
慶長五年六月一日
1600
徳川秀忠、森忠政に徳川家康の陸奥会津出陣の時期を報ず、
408
後陽成
慶長五年六月一七日
1600
是より先、真田信幸、徳川家康より、陸奥会津出陣の命を受けしを徳川秀忠に報ず、是日、秀忠、之に答ふ、
409
後陽成
慶長五年六月二六日
1600
是より先、日根野高吉、上杉景勝征伐の先鋒を命ぜらる、是日、高吉、諏訪郡高島城に卒す、
410
後陽成
慶長五年六月二八日
1600
下総古河の小笠原秀政、陸奥会津に出陣せんとし、穂苅太郎左衛門尉等の軍役を定む、
411
後陽成
慶長五年
1600
善光寺御堂、成る、また木曽の桟及び伊那河橋、成る、
413
後陽成
慶長五年七月三日
1600
石川三長康長、の家臣九郎姓闕く等、筑摩郡乱橋等緒郷に馬役を充つ、
413
後陽成
慶長五年七月六日
1600
仙石盛長、秀康、秀久、仙石左京等をして、陸奥会津に出陣の臼田善三郎に米を渡さしむ、
414
後陽成
慶長五年七月七日
1600
徳川家康、屋代秀正勝永、を陸奥会津の陣に派す、
415
後陽成
慶長五年七月九日
1600
森忠政、孫六に命じ、川中島四郡のかわやをして、篭舎番及び城内掃除等を勤めしむ、
416
後陽成
慶長五年七月一七日
1600
豊臣氏の奉行長束正家等、徳川家康を討たんとして、真田昌幸に之を報じ、豊臣秀頼に、忠節を尽すべきをもとむ、
417
後陽成
慶長五年七月一九日
1600
徳川秀忠、江戸城を発して陸奥に出陣す、小笠原信之、その先陣に加はる、
418
後陽成
慶長五年七月二一日
1600
川中島の森忠政、徳川家康の軍に投ぜんとして下野宇都宮に到る、
418
後陽成
慶長五年七月二四日
1600
是より先、真田昌幸、徳川家康に叛き、陸奥会津征討の軍陣を離れて、小県郡上田に帰る、是日、家康、昌幸の子信幸の家康の軍に止まるを褒す、尋いで、昌幸の所領小県郡の地を信幸に宛行ふ、
420
後陽成
慶長五年七月二六日
1600
是より先、徳川家康、伊那郡飯田の京極高知に軍陣のことを命ず、是日、家康、近江大津の京極高次に、之を報じ高次をして上洛せしむ、
422
後陽成
慶長五年七月二八日
1600
山村良勝・千村良重、徳川家康より木曽谷平定を命ぜらる、
423
後陽成
慶長五年七月二九日
1600
長束正家等、真田昌幸に東軍諸将の質を収めしことを告げ、且つ豊臣秀頼に忠節を致さんことを勧む、
427
後陽成
慶長五年七月三〇日
1600
是より先、真田昌幸、西軍に応じ、使を近江佐和山の石田三成に遣はす、是日、三成、之に答へ、軍略を告げ、上杉景勝への使者の案内を依頼す、
430
後陽成
慶長五年七月三〇日
1600
徳川家康の臣大久保忠隣等、山村良勝等をして、木曽の本年年貢収納を沙汰せしむ、
436
後陽成
慶長五年
1600
信濃の人市岡忠吉、江戸に卒す、
437
後陽成
慶長五年八月一日
1600
長束正家等、真田昌幸に、軍状を告げ、豊臣秀頼への忠節を勤む、明日、また軍状を告ぐ、 石田三成、某に参陣を促す、
437
後陽成
慶長五年八月一日
1600
徳川家康、木曽の諸士に忠節を求む、
441
後陽成
慶長五年八月二日
1600
徳川家康、江戸帰陣を森忠政に報じ、忠政をして、小県郡上田城の真田昌幸に備へしむ、
442
後陽成
慶長五年八月三日
1600
是より先、仙石盛長、秀康、秀久、関東に出陣す、是日、秀康、徳川家康の命により、佐久郡小諸城に帰り、真田昌幸に備ふ、
443
後陽成
慶長五年八月五日
1600
石田三成、真田昌幸に軍状を報ず、明日、また、之を報ず、
444
後陽成
慶長五年八月五日
1600
上杉景勝、岩井信能に徳川家康の下野小山に在陣するを報じ、陸奥白川城の備を堅固にせしむ、
451
後陽成
慶長五年八月五日
1600
真田昌幸、河原右京亮等に、東西両軍の手切を報じ、忠勤を促す、
453
後陽成
慶長五年八月一〇日
1600
石田三成、真田昌幸・信繁父子をして、東軍諸将の領地を侵し、また、陸奥会津の上杉景勝と謀議せしむ、
453
後陽成
慶長五年八月一二日
1600
直江兼続、岩井信能に答書し、陸奥白川城普請等を勤めしめ、諸方の情況を報ず、
457
後陽成
慶長五年八月一五日
1600
山村良勝・千村良重等、木曽に入り、妻篭に陣し、徳川家康に援兵を請ふ、是日、家康、京極高知・石川三長康長、をして赴援せしむ、
458
後陽成
慶長五年八月二〇日
1600
伊那郡飯田の京極高知、徳川家康に属し、三河に入らんとす、是日、家康、高知をして、濃州口に出陣せしむ、
463
後陽成
慶長五年八月二一日
1600
徳川家康、上野沼田城主真田信幸の、信濃口・会津口守備を厳にせるを嘉す、
464
後陽成
慶長五年八月二一日
1600
徳川家康、森忠政の家康の軍に参ぜんとするを停め、領内守備を厳にせしむ、
465
後陽成
慶長五年八月二一日
1600
上杉景勝、新津内記助等をして、信濃の人芋川親元等と、出羽最上出陣のことを議せしむ、
467
後陽成
慶長五年八月二一日
1600
山村良勝・千村良重、木曽谷平定の由を徳川家康に報ず、是日、家康、その軍功を褒し、遠山友政等を加勢に遣はす旨を告ぐ、尋いで、良勝等、美濃に兵を進む、
468
後陽成
慶長五年八月二三日
1600
徳川秀忠、小県郡上田城に真田昌幸を攻めんとして、下野宇都宮を発せんとし、旨を上野沼田城の真田信幸に伝へ、その参陣を促す、
473
後陽成
慶長五年八月二三日
1600
徳川家康、山村良勝等をして、美濃の情況を探らしむ、
475
後陽成
慶長五年八月二三日
1600
徳川家康、千村重照等の、山村良勝等に協力して軍功を致すを褒す、
476
後陽成
慶長五年八月二四日
1600
徳川家康、浅野長政に、徳川秀忠の、信濃口に出陣せるを告げ、長政をして、之を赴援せしむ、
480
後陽成
慶長五年八月二五日
1600
信濃の人下総多胡城主保科正光、東軍に属して、美濃・尾張に戦ひ、戦況を多胡の老臣等に報ず、
480
後陽成
慶長五年九月一日
1600
徳川家康、上杉景勝の兵の、虚に乗じて越後に入らんことを慮り、上野沼田の真田信幸等をして越後坂戸に赴援せしむ、
486
後陽成
慶長五年九月一日
1600
是より先、森忠政、徳川秀忠の陣に参ぜんとし、このことを秀忠に報ず、是日、秀忠、之に答ふ、
488
後陽成
慶長五年九月二日
1600
徳川秀忠、山村良勝等をして、木曽谷の警備を厳にせしむ、
488
後陽成
慶長五年九月二日
1600
徳川秀忠、下野より信濃に入り、佐久郡小諸城に着陣す、
489
後陽成
慶長五年九月三日
1600
京極高知、福島正則等と、美濃岐阜城を攻めて之を陥る、是日、家康、高知の功を賞す、
489
後陽成
慶長五年九月五日
1600
是より先、真田昌幸、子信幸に依り、徳川秀忠に赦免を請ふ、是日、昌幸、その態度を変ふるに依り、秀忠、昌幸の属城小県郡砥石城を攻めて之を陥れ、信幸をして、同城を守らしむ、
491
後陽成
慶長五年九月六日
1600
徳川秀忠の諸将等、真田昌幸を上田城に攻む、
494