長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻十八 (300頁~)
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後陽成
慶長三年九月二一日
1598
筑摩郡全久院康翁、寿像に賛を加ふ、
301
後陽成
慶長三年九月二八日
1598
是より先、水内郡西巖寺、陸奥会津に遷る、是日、磯元直、同寺の旧地還住の申請を認め、寺地を宛行ふ、
302
後陽成
慶長三年
1598
信濃の僧舜祐、心覚房、備中一宮本地堂を造立す、
303
後陽成
慶長三年一〇月二三日
1598
武蔵江戸在城の徳川秀忠、上杉景勝の臣岩井信能等に書を送り、景勝の上洛中も疏意なき旨を通ず、
304
後陽成
慶長三年一一月一日
1598
大田才次等、京極高知に、伊那郡阿島村の検地帳並びに荒帳を指出す、
305
後陽成
慶長三年一一月七日
1598
田丸直昌、かわや物頭孫六等の、領内に於いて門別籾子を徴するを許し、役儀を定む、
330
後陽成
慶長三年一一月八日
1598
是より先、仙石盛長、秀康、秀久、肥前名護屋より上洛す、是日、小諸城に帰らんとして、京都を発す、
332
後陽成
慶長三年一一月一〇日
1598
島津昔忠、水内郡西巖寺をして、寺領を安堵せしむ、
332
後陽成
慶長三年一一月二四日
1598
筑摩郡大隆寺開山宗範、準叟、寂す、
333
後陽成
慶長三年一一月二七日
1598
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋いで、重ねての御渡あり、
335
後陽成
慶長三年一二月三日
1598
田丸直昌、善明等をして、埴科郡柴村阿弥陀堂のことを沙汰せしむ、
335
後陽成
慶長三年一二月一八日
1598
仙石信郷、佐久郡竜雲寺に、門前屋敷分の年貢諸役を免除す、
336
後陽成
慶長三年一二月二三日
1598
田丸直昌、高井郡勝善寺に、寺領を与ふ、
336
後陽成
慶長四年正月五日
1599
豊臣氏の五奉行長束正家等、川中島蔵入分代官関一政をして、越後春日山の堀秀治に貸付くる米を渡さしむ、
339
後陽成
慶長四年正月二一日
1599
田丸直昌、埴科郡明徳寺をして、寺領屋敷廻山を安堵せしむ、
339
後陽成
慶長四年正月二三日
1599
真田昌幸、関口角左衛門より、小県郡海野町等の問屋役金を請取る、
340
後陽成
慶長四年二月二〇日
1599
浅間山鳴動す、
341
後陽成
慶長四年
1599
埴科郡明徳寺伝竜、三国流伝血脈を、伝策に伝授す、
341
後陽成
慶長四年三月一日
1599
仙石盛長、秀康、秀久、佐久郡安養寺及び竜雲寺に、寺領を寄進す、
342
後陽成
慶長四年
1599
木曽鏡覚坊某、死霊教化文を書す、 慶長六年二月廿四日付山の神祭文
343
後陽成
慶長四年閏三月二五日
1599
是より先、真田信幸、徳川家康の伏見城に移れるを、武蔵江戸城の徳川秀忠に報ず、是日、秀忠、之に答ふ、
343
後陽成
慶長四年
1599
木曽妻篭の光徳寺住持宗広、性天、同寺本尊薬師如来を造る、
344
後陽成
慶長四年四月七日
1599
上杉景勝、岩井勢三利忠、をして、故島津義忠の女を娶らしめ、義忠の父昔忠の後嗣となす、
348
後陽成
慶長四年六月三日
1599
筑摩郡桐原城の絵図、成る、
350
後陽成
慶長四年六月七日
1599
伊那郡開善寺住持宗販、速伝、寂す、
352
後陽成
慶長四年八月九日
1599
京極高知、伊那郡大雄寺に寺領を寄進す、尋いで、高知の臣岩室五兵衛等、同郡長光寺に寺領を渡付す、
367
後陽成
慶長四年八月九日
1599
信濃の人宮崎泰重、卒す、 信濃の人宮崎重次、父景次の跡をつぐ、
369
後陽成
慶長四年八月一四日
1599
直江兼続、佐久郡岩村田の町人中沢善三郎の、陸奥会津若松へ商売に赴くに依り、所役を免徐す、
370
後陽成
慶長四年
1599
仙石盛長、秀康、秀久、の子秀範、従五位下に叙せられ、豊前守に任ぜらる、
370
後陽成
慶長四年九月六日
1599
木曽山村良利、木曽福島に卒す、
370
後陽成
慶長四年九月七日
1599
伊那郡文永寺僧宗然、五字功能を書写す、
372
後陽成
慶長四年九月一九日
1599
長束正家等、真田信幸をして、陸奥会津下向の福島正則等のため、沼田領内に於いて伝馬を出さしむ、
373
後陽成
慶長四年一〇月一〇日
1599
田丸直昌、かわや孫六に、埴科郡田中の地に於いて、籾五俵を給す、
374
後陽成
慶長四年一〇月一二日
1599
真田昌幸、北沢勘解由の所役を減ず、
375
後陽成
慶長四年一〇月一二日
1599
某、原平左衛門に、小河原・安庭に於いて百石を宛行ふ、
375
後陽成
慶長四年一〇月一六日
1599
田丸直昌、埴科郡熊野権現をして、同社領を安堵せしむ、
376
後陽成
慶長四年一一月三日
1599
真田昌幸、小県郡大輪寺に禁制を掲ぐ、
377
後陽成
慶長四年一一月二五日
1599
落合高之、伊那郡平出村百姓等の、同郡沢底村山ノ内青山に入山すべき馬数并びに山手役を定む、
377
後陽成
慶長四年一一月二八日
1599
浅間山、鳴動す、
378
後陽成
慶長四年
1599
石川光吉の臣馬場小大夫、水内郡大安寺に禁制を掲ぐ、
378
後陽成
慶長四年一二月九日
1599
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋いで、重ねての御渡あり、
379
後陽成
慶長五年正月二三日
1600
松平依田、康真、大坂に於いて小栗三助を殺害し、紀伊高野山に遁る、 康真、某所普請につき、徳川秀忠の督励を受く、
380
後陽成
慶長五年
1600
上杉景勝、岩井信能等をして、陸奥若松城惣門警固に当らしむ、
381
後陽成
慶長五年二月一日
1600
徳川家康、川中島の田丸直昌を美濃に移す、また、森忠政を川中島に移して、更級・埴科・高井・水内四郡の地を与ふ、
383
後陽成
慶長五年二月九日
1600
妻篭弥左衛門等、伊那郡河野郷百姓新左衛門等をして、新開田年貢を進済せしむ、
386
後陽成
慶長五年二月二三日
1600
森忠政の臣、林友重、水内郡山千寺に禁制を掲ぐ、
386
後陽成
慶長五年二月二七日
1600
豊臣氏の奉行前田玄以等、田丸直昌をして、河中島御蔵米を、森忠政に渡付せしむ、
387
後陽成
慶長五年三月一三日
1600
真田昌幸、伏見より書を同信幸に送りて、その疾を問ひ、近況を報ず、
388
後陽成
慶長五年三月一九日
1600
佐久郡前貞祥寺住持竜鶴、松山、寂す、
389
後陽成
慶長五年三月二五日
1600
信濃の人陸奥簗川の須田長義、上杉景勝に物を送りて存問す、是日、景勝、之を謝し、城普請を励ましむ、
390
後陽成
慶長五年
1600
佐久郡千手院香永、仏説阿弥陀経に奥書を加ふ、
391
後陽成
慶長五年四月二日
1600
是より先、森忠政、埴科郡海津城に移り、之を徳川秀忠に報ず、是日、秀忠、之を祝す、尋いで、また秀忠、忠政に物を贈りて、海津入城を祝す、
391
後陽成
慶長五年四月三日
1600
小県郡越戸村善次郎、同村地寄覚帳を記す、
392