長野県立歴史館 信濃史料

「信濃史料」 巻二十 (1頁~)


1頁~ next 100頁~ next 200頁~ next 300頁~ next 400頁~ next 500頁~ shuroku 「信濃史料」巻別収録年代に戻る


・ 綱文(記事)をクリックすると、綱文とその出典を掲載した画面が表示されます。
天皇 年月日 西暦 記事
後陽成慶長九年八月一日1604水内郡戸隠山法印賢栄、寂す、1
後陽成慶長九年八月三日1604松本城主石川三長、康長、安曇郡満願寺をして、寺領を安堵せしむ、 鶴見長勝、安曇郡大綱村善兵衛をして伝馬を出さしむ1
後陽成慶長九年八月五日1604山城本願寺光昭、准如、更級郡康楽寺所蔵の親鸞上人具髪画像に、裏書を加ふ、2
後陽成慶長九年八月五日1604筑摩郡青柳伝右衛門、深江角兵衛に金子を納む、3
後陽成慶長九年八月六日1604松城城主松平忠輝、高井郡浄運寺に、寺領分諸役を免ず、3
後陽成慶長九年八月一〇日1604松平忠輝、水内郡月輪寺等に地を寄進す、4
後陽成慶長九年八月一一日1604石川三長、康長、安曇郡舟場村代官等をして、竹林の破損の状況を報ぜしめ、許可なく伐ることなからしむ 三長、安曇郡穂高村等に命じて、竹子を松本に届けしむ、5
後陽成慶長九年八月一二日1604松平忠輝、水内郡大安寺に寺領を寄進す、尋いで、同郡性乗寺にも寄進す、 大久保長安より大安寺宛の書状7
後陽成慶長九年八月二八日1604松平忠輝、水内郡田尻之宮等に神領を渡付す、9
後陽成慶長九年1604小県郡下之郷大明神の絵馬、成る、12
後陽成慶長九年閏八月二日1604石川三長、安曇郡倉科惣介に、同郡舟場・野平の前年分年貢勘定目録を渡す、12
後陽成慶長九年閏八月二一日1604大久保長安、千村良重に、徳川家康・同秀忠に柿を献上せんことを求む、14
後陽成慶長九年閏八月二二日1604真田信之、江戸に在りて、出浦対馬守に書を送り、領内年貢算用のことを指示す、14
後陽成慶長九年閏八月二二日1604徳川家康、遠江に至り、木曽より遠江へ出す榑木の材質悪しきを責む、是日、成瀬正成等、その旨を千村良重に通ず、15
後陽成慶長九年九月一日1604神道管領長上吉田兼治、河中島四郡の社家の修験作法を行ふを禁じ、山岸清高等をして之を取締らしむ、 鈴鹿采女正、社家・山伏の争につき、立神某等に報ず、16
後陽成慶長九年九月六日1604仙石秀久、鷲見次久等に知行を与ふ、18
後陽成慶長九年九月一〇日1604仙石秀久、山城石清水八幡宮に佐久郡桜井村の地を寄進す、 仙石秀久、徳川家康に物を献じ、家康、これに答ふ、20
後陽成慶長九年九月二一日1604神道管領長上吉田某、伊那郡菅沼八幡宮祠官菅沼継忠をして、先例の如く神事を勤めしむ、21
後陽成慶長九年1604諏訪頼満、頼水、屋代秀政より祢津松鷗軒記を贈らる、22
後陽成慶長九年1604川中島四郡の草山年貢帳、成る、 慶長十年以後改出しにかかる草山年貢帳22
後陽成慶長九年一〇月一一日1604松平忠輝、高井郡更科村大明神社等に神領を寄進す、尋いで、領内の諸社にも寄進す、38
後陽成慶長九年一〇月一五日1604本願寺光昭、准如、水内郡康楽寺所蔵の親鸞上人画像に裏書を加ふ、41
後陽成慶長九年一一月二二日1604保科正光、伊那郡鉾持権現社の、同社修理料を領内に於いて勧進せんとするを許す、42
後陽成慶長九年一一月二五日1604真田信之、蜂須賀新六等に知行を与ふ、42
後陽成慶長九年一一月二九日1604諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋いで、重ねての御渡あり、44
後陽成慶長九年1604更級郡興禅寺住持存育、隆山、淳雪に密参を伝授す、44
後陽成慶長九年一二月一四日1604木曽山村良勝、木曽岩郷の月付榑木の算用を遂ぐ、45
後陽成慶長九年1604幕府・東山・東海・北陸等の諸街道を修理し、一里塚を築く、是歳、幕府、太田勝兵衛・永田重真に命じ、之を奉行せしむ、46
後陽成慶長九年1604小笠原秀政の女、阿波蜂須賀至鎮に嫁す、49
後陽成慶長九年1604某、仙石秀久のために祈念す、49
後陽成慶長九年1604木曽代官、当年の谷中勘定目録を記す、50
後陽成慶長一〇年正月二八日1605徳川家康、小諸仙石忠政の弟久隆に知行を加増す、57
後陽成慶長一〇年正月二八日1605皆川広照、重ねて、飯山領内の諸社をして、神領を安堵せしむ、57
後陽成慶長一〇年1605本因坊算砂、真田信之等に物を贈る、58
後陽成慶長一〇年二月一二日1605是より先、石川三長の家臣渡辺長次、諏訪頼満頼水、の家臣千野左兵衛等に領内より闕落せる者の返還を求む、是日、左兵衛等、その返還を約す、59
後陽成慶長一〇年二月一七日1605真田信之の家臣日置豊後、長井権助に田地を渡す、60
後陽成慶長一〇年二月二四日1605徳川秀忠、上洛のため江戸を発す、仙石秀久・石川三長・小笠原秀政・真田信之等、之に供奉す、60
後陽成慶長一〇年二月二五日1605仙石秀久、同直政等をして、佐久郡内社人等への寄進未渡分の算用を遂げしむ、65
後陽成慶長一〇年二月二六日1605幕府、駿河阿部衆海野弥兵衛・朝倉在重をして、信濃・駿河・遠江・甲斐諸国の山林を巡検せしむ、65
後陽成慶長一〇年1605神戸秀次、伊那郡知久平八幡宮に地を寄進す、66
後陽成慶長一〇年三月一〇日1605諏訪郡の刀鍜冶川上信舎、卒す、67
後陽成慶長一〇年三月一二日1605小笠原秀政、徳川秀忠上洛供奉のため近江愛知川に到り、犬甘内記に書を送りて飯田留守を厳にすべきを告ぐ、68
後陽成慶長一〇年三月一六日1605重行、姓闕く佐久郡泉殊院に、佐久郡久能村の地を寄進す、69
後陽成慶長一〇年三月一七日1605真田信之、小県郡原町の町割を改む、是日、宮下藤右衛門、柳沢与兵衛に屋敷替を命ず、69
後陽成慶長一〇年三月二六日1605佐久郡正安寺住持種才、良室、雄的的外、に宗旨約束の切紙を伝授す、 種才、雄的に七仏嗣承道場荘厳儀式の大事を伝授す、70
後陽成慶長一〇年1605小笠原秀政、伊那郡東照寺に禁制を掲ぐ、72
後陽成慶長一〇年1605石川三長の家臣鶴見長勝、安曇郡金熊村の北沢対馬をして、金熊山中の地を開発せしむ、73
後陽成慶長一〇年四月七日1605信濃の人関吉兼、卒す、74
後陽成慶長一〇年四月一一日1605松城城主松平忠輝、参内を遂げ、従四位下に叙せられ、右近衛少将に補せらる、75
後陽成慶長一〇年四月一五日1605是より先、小県郡定津院看坊秀嫩、桂巌、甲斐興因寺と相摸最乗寺の輪住職を争ひて、之を奪はれ、同寺を退き、同郡上田大輪寺住持に遷任す、是日、同郡霊泉寺住持英点、雪堂、定津院住持となる、76
後陽成慶長一〇年四月一六日1605征夷大将軍徳川秀忠、諏訪頼満頼水、をして、諏訪郡を領知せしむ、77
後陽成慶長一〇年四月二六日1605徳川秀忠、将軍宣下拝賀のため参内す、仙石秀久・真田信之等、之に供奉す、77
後陽成慶長一〇年四月二六日1605諏訪頼満、頼水、従五位下に叙せられ、因幡守に任ぜらる、80
後陽成慶長一〇年四月二八日1605小笠原秀政、犬甘内記に近況を報じ、飯田城の留守を依頼す、 小笠原秀政の榎倉大夫宛書状81
後陽成慶長一〇年五月一一日1605松平忠輝、将軍徳川秀忠の名代となり、大坂に赴く、83
後陽成慶長一〇年五月一八日1605菅三右衛門、木曽黒川村肝煎等をして、旧の如く山のことを沙汰せしむ、83
後陽成慶長一〇年五月二六日1605筑摩郡牛伏寺憲怡、大般若経に識語を加ふ、84
後陽成慶長一〇年五月二八日1605石川三長の家臣鶴見喜左衛門、安曇郡倉科宗助等に、同郡船場・野平村等の年貢の勘定目録を渡す、84
後陽成慶長一〇年六月一〇日1605忠右衛門、姓闕く高井郡小兵衛より年貢米を請取る、86
後陽成慶長一〇年七月一〇日1605佐久郡竜雲寺住持将奕、大雲、京察に伝法す、86
後陽成慶長一〇年八月一一日1605諏訪郡高嶋城主諏訪頼忠、卒す、87
後陽成慶長一〇年八月一四日1605真田信之、小県郡実相院をして、寺領を安堵せしむ、93
後陽成慶長一〇年八月二〇日1605石川三長の家臣渡辺長次、安曇郡安楽寺をして、寺領・門前屋敷等を安堵せしむ、94
後陽成慶長一〇年八月二一日1605山村良勝、木曽宮越村の伝馬人足条目を定む、94
後陽成慶長一〇年八月二八日1605松平忠輝、水内郡西巌寺に寺領を寄進す、95
後陽成慶長一〇年1605松平忠輝、高井郡前坂村の検地を行ふ、96