長野県立歴史館 信濃史料
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後陽成
慶長九年八月一日
1604
水内郡戸隠山法印賢栄、寂す、
1
後陽成
慶長九年八月三日
1604
松本城主石川三長、康長、安曇郡満願寺をして、寺領を安堵せしむ、 鶴見長勝、安曇郡大綱村善兵衛をして伝馬を出さしむ
1
後陽成
慶長九年八月五日
1604
山城本願寺光昭、准如、更級郡康楽寺所蔵の親鸞上人具髪画像に、裏書を加ふ、
2
後陽成
慶長九年八月五日
1604
筑摩郡青柳伝右衛門、深江角兵衛に金子を納む、
3
後陽成
慶長九年八月六日
1604
松城城主松平忠輝、高井郡浄運寺に、寺領分諸役を免ず、
3
後陽成
慶長九年八月一〇日
1604
松平忠輝、水内郡月輪寺等に地を寄進す、
4
後陽成
慶長九年八月一一日
1604
石川三長、康長、安曇郡舟場村代官等をして、竹林の破損の状況を報ぜしめ、許可なく伐ることなからしむ 三長、安曇郡穂高村等に命じて、竹子を松本に届けしむ、
5
後陽成
慶長九年八月一二日
1604
松平忠輝、水内郡大安寺に寺領を寄進す、尋いで、同郡性乗寺にも寄進す、 大久保長安より大安寺宛の書状
7
後陽成
慶長九年八月二八日
1604
松平忠輝、水内郡田尻之宮等に神領を渡付す、
9
後陽成
慶長九年
1604
小県郡下之郷大明神の絵馬、成る、
12
後陽成
慶長九年閏八月二日
1604
石川三長、安曇郡倉科惣介に、同郡舟場・野平の前年分年貢勘定目録を渡す、
12
後陽成
慶長九年閏八月二一日
1604
大久保長安、千村良重に、徳川家康・同秀忠に柿を献上せんことを求む、
14
後陽成
慶長九年閏八月二二日
1604
真田信之、江戸に在りて、出浦対馬守に書を送り、領内年貢算用のことを指示す、
14
後陽成
慶長九年閏八月二二日
1604
徳川家康、遠江に至り、木曽より遠江へ出す榑木の材質悪しきを責む、是日、成瀬正成等、その旨を千村良重に通ず、
15
後陽成
慶長九年九月一日
1604
神道管領長上吉田兼治、河中島四郡の社家の修験作法を行ふを禁じ、山岸清高等をして之を取締らしむ、 鈴鹿采女正、社家・山伏の争につき、立神某等に報ず、
16
後陽成
慶長九年九月六日
1604
仙石秀久、鷲見次久等に知行を与ふ、
18
後陽成
慶長九年九月一〇日
1604
仙石秀久、山城石清水八幡宮に佐久郡桜井村の地を寄進す、 仙石秀久、徳川家康に物を献じ、家康、これに答ふ、
20
後陽成
慶長九年九月二一日
1604
神道管領長上吉田某、伊那郡菅沼八幡宮祠官菅沼継忠をして、先例の如く神事を勤めしむ、
21
後陽成
慶長九年
1604
諏訪頼満、頼水、屋代秀政より祢津松鷗軒記を贈らる、
22
後陽成
慶長九年
1604
川中島四郡の草山年貢帳、成る、 慶長十年以後改出しにかかる草山年貢帳
22
後陽成
慶長九年一〇月一一日
1604
松平忠輝、高井郡更科村大明神社等に神領を寄進す、尋いで、領内の諸社にも寄進す、
38
後陽成
慶長九年一〇月一五日
1604
本願寺光昭、准如、水内郡康楽寺所蔵の親鸞上人画像に裏書を加ふ、
41
後陽成
慶長九年一一月二二日
1604
保科正光、伊那郡鉾持権現社の、同社修理料を領内に於いて勧進せんとするを許す、
42
後陽成
慶長九年一一月二五日
1604
真田信之、蜂須賀新六等に知行を与ふ、
42
後陽成
慶長九年一一月二九日
1604
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋いで、重ねての御渡あり、
44
後陽成
慶長九年
1604
更級郡興禅寺住持存育、隆山、淳雪に密参を伝授す、
44
後陽成
慶長九年一二月一四日
1604
木曽山村良勝、木曽岩郷の月付榑木の算用を遂ぐ、
45
後陽成
慶長九年
1604
幕府・東山・東海・北陸等の諸街道を修理し、一里塚を築く、是歳、幕府、太田勝兵衛・永田重真に命じ、之を奉行せしむ、
46
後陽成
慶長九年
1604
小笠原秀政の女、阿波蜂須賀至鎮に嫁す、
49
後陽成
慶長九年
1604
某、仙石秀久のために祈念す、
49
後陽成
慶長九年
1604
木曽代官、当年の谷中勘定目録を記す、
50
後陽成
慶長一〇年正月二八日
1605
徳川家康、小諸仙石忠政の弟久隆に知行を加増す、
57
後陽成
慶長一〇年正月二八日
1605
皆川広照、重ねて、飯山領内の諸社をして、神領を安堵せしむ、
57
後陽成
慶長一〇年
1605
本因坊算砂、真田信之等に物を贈る、
58
後陽成
慶長一〇年二月一二日
1605
是より先、石川三長の家臣渡辺長次、諏訪頼満頼水、の家臣千野左兵衛等に領内より闕落せる者の返還を求む、是日、左兵衛等、その返還を約す、
59
後陽成
慶長一〇年二月一七日
1605
真田信之の家臣日置豊後、長井権助に田地を渡す、
60
後陽成
慶長一〇年二月二四日
1605
徳川秀忠、上洛のため江戸を発す、仙石秀久・石川三長・小笠原秀政・真田信之等、之に供奉す、
60
後陽成
慶長一〇年二月二五日
1605
仙石秀久、同直政等をして、佐久郡内社人等への寄進未渡分の算用を遂げしむ、
65
後陽成
慶長一〇年二月二六日
1605
幕府、駿河阿部衆海野弥兵衛・朝倉在重をして、信濃・駿河・遠江・甲斐諸国の山林を巡検せしむ、
65
後陽成
慶長一〇年
1605
神戸秀次、伊那郡知久平八幡宮に地を寄進す、
66
後陽成
慶長一〇年三月一〇日
1605
諏訪郡の刀鍜冶川上信舎、卒す、
67
後陽成
慶長一〇年三月一二日
1605
小笠原秀政、徳川秀忠上洛供奉のため近江愛知川に到り、犬甘内記に書を送りて飯田留守を厳にすべきを告ぐ、
68
後陽成
慶長一〇年三月一六日
1605
重行、姓闕く佐久郡泉殊院に、佐久郡久能村の地を寄進す、
69
後陽成
慶長一〇年三月一七日
1605
真田信之、小県郡原町の町割を改む、是日、宮下藤右衛門、柳沢与兵衛に屋敷替を命ず、
69
後陽成
慶長一〇年三月二六日
1605
佐久郡正安寺住持種才、良室、雄的的外、に宗旨約束の切紙を伝授す、 種才、雄的に七仏嗣承道場荘厳儀式の大事を伝授す、
70
後陽成
慶長一〇年
1605
小笠原秀政、伊那郡東照寺に禁制を掲ぐ、
72
後陽成
慶長一〇年
1605
石川三長の家臣鶴見長勝、安曇郡金熊村の北沢対馬をして、金熊山中の地を開発せしむ、
73
後陽成
慶長一〇年四月七日
1605
信濃の人関吉兼、卒す、
74
後陽成
慶長一〇年四月一一日
1605
松城城主松平忠輝、参内を遂げ、従四位下に叙せられ、右近衛少将に補せらる、
75
後陽成
慶長一〇年四月一五日
1605
是より先、小県郡定津院看坊秀嫩、桂巌、甲斐興因寺と相摸最乗寺の輪住職を争ひて、之を奪はれ、同寺を退き、同郡上田大輪寺住持に遷任す、是日、同郡霊泉寺住持英点、雪堂、定津院住持となる、
76
後陽成
慶長一〇年四月一六日
1605
征夷大将軍徳川秀忠、諏訪頼満頼水、をして、諏訪郡を領知せしむ、
77
後陽成
慶長一〇年四月二六日
1605
徳川秀忠、将軍宣下拝賀のため参内す、仙石秀久・真田信之等、之に供奉す、
77
後陽成
慶長一〇年四月二六日
1605
諏訪頼満、頼水、従五位下に叙せられ、因幡守に任ぜらる、
80
後陽成
慶長一〇年四月二八日
1605
小笠原秀政、犬甘内記に近況を報じ、飯田城の留守を依頼す、 小笠原秀政の榎倉大夫宛書状
81
後陽成
慶長一〇年五月一一日
1605
松平忠輝、将軍徳川秀忠の名代となり、大坂に赴く、
83
後陽成
慶長一〇年五月一八日
1605
菅三右衛門、木曽黒川村肝煎等をして、旧の如く山のことを沙汰せしむ、
83
後陽成
慶長一〇年五月二六日
1605
筑摩郡牛伏寺憲怡、大般若経に識語を加ふ、
84
後陽成
慶長一〇年五月二八日
1605
石川三長の家臣鶴見喜左衛門、安曇郡倉科宗助等に、同郡船場・野平村等の年貢の勘定目録を渡す、
84
後陽成
慶長一〇年六月一〇日
1605
忠右衛門、姓闕く高井郡小兵衛より年貢米を請取る、
86
後陽成
慶長一〇年七月一〇日
1605
佐久郡竜雲寺住持将奕、大雲、京察に伝法す、
86
後陽成
慶長一〇年八月一一日
1605
諏訪郡高嶋城主諏訪頼忠、卒す、
87
後陽成
慶長一〇年八月一四日
1605
真田信之、小県郡実相院をして、寺領を安堵せしむ、
93
後陽成
慶長一〇年八月二〇日
1605
石川三長の家臣渡辺長次、安曇郡安楽寺をして、寺領・門前屋敷等を安堵せしむ、
94
後陽成
慶長一〇年八月二一日
1605
山村良勝、木曽宮越村の伝馬人足条目を定む、
94
後陽成
慶長一〇年八月二八日
1605
松平忠輝、水内郡西巌寺に寺領を寄進す、
95
後陽成
慶長一〇年
1605
松平忠輝、高井郡前坂村の検地を行ふ、
96