長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻二十 (200頁~)
1頁~
100頁~
200頁~
300頁~
400頁~
500頁~
「信濃史料」巻別収録年代に戻る
・ 綱文(記事)をクリックすると、綱文とその出典を掲載した画面が表示されます。
天皇
年月日
西暦
記事
頁
後陽成
慶長一一年一〇月二六日
1606
石川三長、筑摩郡正行寺をして、寺領を安堵せしむ、
200
後陽成
慶長一一年一〇月二七日
1606
真田信之、小県郡海野町清右衛門等の家を、客来の時の宿と定む、
201
後陽成
慶長一一年
1606
建仁寺禅居庵の徒正精、進月、同寺住持となり入院す、同寺大統印塔主慈稽、古澗、その山門疏を作る、
202
後陽成
慶長一一年一一月六日
1606
幕府、佐久郡平沢村等の百姓を、佐久郡海口村と平沢村の間に移し、新宿を作らしむ、
203
後陽成
慶長一一年一一月一一日
1606
伊那郡虎岩村、当年の年貢納帳を記す、
204
後陽成
慶長一一年一一月一二日
1606
水内郡荒頼原・舟竹村の名寄帳、成る、
210
後陽成
慶長一一年一一月一八日
1606
仙石秀久の子政能、従五位下に叙せられ、丹後守に任ぜらる、
214
後陽成
慶長一一年一一月二六日
1606
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋いで、重ねての御渡あり、
214
後陽成
慶長一一年一二月四日
1606
保科正光、有賀太郎右衛門尉に知行を給すべきを約す、
215
後陽成
慶長一一年一二月一三日
1606
木曽代官、当年の谷中勘定目録を駿府勘定所に差出す、
215
後陽成
慶長一一年一二月一六日
1606
小県郡信綱寺住持将奕、大雲、京察に自家訓訳を伝授す、尋いで、空鹿書を伝授す、
223
後陽成
慶長一一年一二月二〇日
1606
真田信之、小県郡信綱寺に江湖領を寄進す、
224
後陽成
慶長一一年一二月二四日
1606
松平忠輝、陸奥伊達政宗の女を娶る、
225
後陽成
慶長一一年一二月二八日
1606
小笠原秀政、伊那郡瑠璃寺に禁制を掲ぐ、
227
後陽成
慶長一一年
1606
幕府、保科正光に江戸城普請手伝を命ず、
227
後陽成
慶長一二年正月十一日
1607
真田信之、河野清右衛門に、佐野加右衛門・馬場市兵衛分の地等を与ふ、
229
後陽成
慶長一二年正月二八日
1607
埴科郡明徳寺住持是鑑、円室、円祝に大事目録を伝授す、
229
後陽成
慶長一二年二月一三日
1607
紀伊高野山の真田昌幸、小山田之知の賀歳を謝し、之知の江戸城普請に赴くの労を犒ふ、
231
後陽成
慶長一二年二月一五日
1607
仏涅槃日、建仁寺住持慈稽、古澗、上堂説法す、
232
後陽成
慶長一二年二月二九日
1607
大久保長安、角倉了以に書を送り、千曲川の通船の可否検分のため、人を送らんことを求む、
233
後陽成
慶長一二年
1607
松平忠輝、諸人の高井郡鷹巣山に入るを禁ず、
234
後陽成
慶長一二年四月八日
1607
仏誕生日、山城建仁寺住持慈稽、古澗、上堂説法す、
234
後陽成
慶長一二年四月一四日
1607
保科正光の家臣篠田隆吉、江戸城普請の人足について、諏訪頼満頼水、の家臣千野光成に報ず、光成、之に答ふ、
235
後陽成
慶長一二年四月一五日
1607
結制、建仁寺住持慈稽、古澗、上堂説法す、尋いで、慈稽、同寺を退院して同寺大統院に帰隠す、
238
後陽成
慶長一二年四月一六日
1607
大久保長安、山村良勝をして、木曽材木を甲・駿州に送らしむ、
239
後陽成
慶長一二年四月一六日
1607
仙石秀久、高橋源助に知行を与ふ、
241
後陽成
慶長一二年四月二二日
1607
石川三長、草間源介に、筑摩郡小池郷に於いて知行を与ふ、
242
後陽成
慶長一二年
1607
林宗重、伊那郡大平新左衛門等に、同郡今田郷の某志摩の跡職を預く、
242
後陽成
慶長一二年閏四月一日
1607
幕府、信越・関東・奥羽等の諸大名をして、江戸城天守及び石塁を修築せしむ、
243
後陽成
慶長一二年閏四月二〇日
1607
是より先、幕府、美濃衆をして駿府城修築の用材を木曽に採らしめ、桑名代官水谷光勝をして、右用材を積送せしむ、
244
後陽成
慶長一二年閏四月二二日
1607
宮下藤右衛門、河原右京亮に、同心給の替地として、小県郡真田料所の内を渡す、
245
後陽成
慶長一二年五月二〇日
1607
佐久郡正安寺住持種才、良室、兼知死期秘事切紙を雄的 的外、に伝授す、 古山、雄的に切紙を伝授す、
248
後陽成
慶長一二年六月二〇日
1607
徳川家康、角倉了以の、諏訪より遠江県塚に至る天竜川の舟路を開けるに依り、舟役を許す、尋いで、同秀忠、之を許す、
249
後陽成
慶長一二年六月二四日
1607
是より先、佐竹義宣、石川三長に音信す、是日、三長、江戸城普請のことを報答す、 石川三長、佐竹義宣に音信す、
250
後陽成
慶長一二年六月二六日
1607
真田信之、同高勝菩提のため、小県郡高勝寺に寺領を寄進す、 真田高勝に関する書状
252
後陽成
慶長一二年六月二九日
1607
神道管領長上吉田兼任、高井郡小山八幡宮祠官山岸吉具に、風折鳥帽子・狩衣着用を允可す、
254
後陽成
慶長一二年
1607
耶蘇会神父某、江戸より信濃・美濃を経て、京都に向ふ、
255
後陽成
慶長一二年七月一〇日
1607
松平忠輝、水内郡穂刈新町に市立を許す、
256
後陽成
慶長一二年七月一二日
1607
石川三長、筑摩郡刈谷沢・中村等の村々をして、金荷俄大伝馬の時、同郡青柳本町問屋の触れにより伝馬を出さしむ、
256
後陽成
慶長一二年七月二五日
1607
山城聖護院門主道澄、佐久郡法華堂祐源を僧都となす、
257
後陽成
慶長一二年
1607
伊那郡地侍衆平出権右衛門等、保科正光の家臣吉川九兵衛、同有賀権右衛門と伊那郡下田万五郎衆に、同郡有賀権右衛門等の持山に於いて刈草を採るを許す、
258
後陽成
慶長一二年八月一五日
1607
中秋、山城建仁寺住持慈稽、古澗、上堂説法す、
259
後陽成
慶長一二年八月一七日
1607
本願寺光寿、教如、筑摩郡正行寺所蔵の三朝高祖・聖徳太子画像に裏書を加ふ、
261
後陽成
慶長一二年九月一七日
1607
山城聖護院門主道澄、佐久郡法華堂祐源を同郡大井の檀那先達職となす、
262
後陽成
慶長一二年一〇月五日
1607
達磨忌、建仁寺住持慈稽、古澗、拈香仏事を修して之を追薦す、
262
後陽成
慶長一二年一〇月一八日
1607
飯田城主小笠原秀政の室、徳川家康孫女、卒す、秀政、剃髪し、私に封地を子忠脩に分与す、
263
後陽成
慶長一二年一〇月二三日
1607
仙石秀久、佐久郡望月鎮守八幡宮に神田を寄進す、 秀久、望月鎮守八幡宮を小諸城外に移す、
265
後陽成
慶長一二年一〇月二七日
1607
真田信之、与五右衛門に知行を与ふ、
266
後陽成
慶長一二年
1607
東天、南嶺、仏説最大一切徳円満知死期経を雄的的外、に付す、
266
後陽成
慶長一二年一一月六日
1607
冬至、建仁寺住持慈稽、古澗、上堂説法す、
267
後陽成
慶長一二年一一月九日
1607
伊那郡開善寺住持玄種、蛮宿、宗船月窓、に法衣戒法を授け、安名す、
268
後陽成
慶長一二年一一月一六日
1607
山村良勝、木曽奈良井宿に条目を頒つ、
269
後陽成
慶長一二年一一月二一日
1607
仙石秀久、高橋源助に佐久郡平賀の地を給す、
271
後陽成
慶長一二年一一月二四日
1607
嘉右衛門姓闕く等、筑摩郡青柳の太兵衛より問屋役銀を請取る、
272
後陽成
慶長一二年一一月二七日
1607
真田信之・石合新左衛門より、今年年貢の金銀子を請取る、
272
後陽成
慶長一二年一二月四日
1607
真田信之、小川二郎右衛門等に地を与ふ、 真田信之、正村右衛門佐に知行を与ふ、
273
後陽成
慶長一二年一二月一〇日
1607
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋いで、重ねての御渡あり、
275
後陽成
慶長一二年一二月一〇日
1607
真田信之、日置一郎兵衛をして、小県郡岡村等の地を安堵せしむ、
275
後陽成
慶長一二年一二月一六日
1607
真田信之、上野平川戸町の伝馬等につき条規を定む、
276
後陽成
慶長一二年一二月二八日
1607
是より先、駿府城、火く、是日、大久保長安、同城修復用材の伐出を、木曽山村良勝等に命ず、
277
後陽成
慶長一二年一二月二八日
1607
徳川秀忠、諏訪頼満、頼水、の子松千代丸に偏諱を与へて、忠頼忠恒、称せしむ、
279
後陽成
慶長一二年
1607
松平忠輝、水内郡北条村の荒地切開の検地を行ふ、
280
後陽成
慶長一二年
1607
斉藤盛正、小県郡天竜寺縁起を補修す、
283
後陽成
慶長一二年
1607
佐久郡貞祥寺住持運芸、才庵、同寺を芳達大翁、に譲り、同郡竜泉院に移り、僧秀浦、倍蔓、埴科郡法泉寺住持となる、
283
後陽成
慶長一二年
1607
佐久郡正安寺住持種才、良室、同郡に東光寺を開き、之に移る、尋いで、梵達、不舶、正安寺住持となる、
284
後陽成
慶長一三年正月二日
1608
大久保長安、駿府築城のため、木曽山村良勝・遠山友政に土井板の仕出しを命ず、 長安、山村良勝・遠山友政をして木曽よりの材木を伊勢桑名に送届けしむ、
286
後陽成
慶長一三年正月二〇日
1608
真田信之、金井金右衛門に知行を与ふ、
289
後陽成
慶長一三年二月三日
1608
真田信之、上野渡常陸守をして、同国大柏木百姓を還住せしむ、
290
後陽成
慶長一三年二月二六日
1608
筑摩郡牛伏寺憲康、是頃、大蔵経を閲読す、是日、その内の大般涅槃経に識語を加ふ、 憲康、閲読の次いでに、同寺の他諸経に識語を加ふ、
291
後陽成
慶長一三年二月二九日
1608
仙石秀久、小林五郎左衛門に佐久郡平賀の地を与ふ、
295
後陽成
慶長一三年
1608
南嶺、雄的的外、に倶胝一指禅大事を授く、
296
後陽成
慶長一三年
1608
是より先、伊那郡竜門寺玄彭、覚堂、保安寺住持楽福尼の請に応じて、その預修の秉炬仏事を修す、是月、その法語を楽福尼に書き与ふ、
297
後陽成
慶長一三年三月一一日
1608
宮田又左衛門等、伊那郡日輪寺に、替地を給す、
297
後陽成
慶長一三年三月一三日
1608
小笠原秀政の家臣春日淡路、伊那郡市田宿並びに同郡大島宿の条規を定む、
298