長野県立歴史館 信濃史料

「信濃史料」 巻二十 (400頁~)


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天皇 年月日 西暦 記事
後陽成慶長一三年1608筑摩郡埴原村の清左衛門、尾張津島社の檀那となる、400
後陽成慶長一三年1608諏訪社上社四足門、成る、401
後陽成慶長一三年1608伊那郡虎岩村、当年の縄高帳を記す、401
後陽成慶長一四年正月一日1609元旦、建仁寺住持慈稽、古澗、上堂説法す、407
後陽成慶長一四年正月四日1609石川三長の江戸屋敷、類焼す、411
後陽成慶長一四年正月五日1609小笠原忠脩、平沢采女正に、知行を与へんことを約す、411
後陽成慶長一四年正月一六日1609大蔵、姓闕く井口弥左衛門等に、伊那郡米川村の慶長十二年の年貢勘定目録を差出す、411
後陽成慶長一四年正月二八日1609佐久郡正安寺住持種才、良室、雄的的外、に仏祖正法眼蔵血脈を授与す、413
後陽成慶長一四年二月二日1609是より先、徳川秀忠、関東諸大名に人数揃を命ず、是日、真田信之、家臣等にその支度を命ず、 大久保長安、山村良勝に池田輝政の江戸下向につき木曽三留野宿泊のことを依頼す、413
後陽成慶長一四年二月一六日1609大蔵、姓闕く井口弥左衛門等に、伊那郡米川村の慶長十一年の年貢勘定目録を差出す、416
後陽成慶長一四年二月一九日1609仙石秀久、佐久郡鹿島大明神に地を寄進す、417
後陽成慶長一四年二月二四日1609高井郡常楽寺呑竜、校割帳を正参に渡す、418
後陽成慶長一四年三月一一日1609是より先、仙石秀久、酒匂小隼人に、佐久郡山辺村に於いて知行を給す、是日、小隼人、知行組の諸氏に之を配分す、420
後陽成慶長一四年三月二八日1609更級郡智識寺大御堂、成る、421
後陽成慶長一四年1609浅間山、噴火す、422
後陽成慶長一四年四月二日1609木曽代官山村良勝、木曽岩郷村をして、板子を割出さしむ、422
後陽成慶長一四年四月一四日1609松平忠輝、小林藤介に、川中島に於いて知行を与ふ、423
後陽成慶長一四年四月二四日1609徳川秀忠、小笠原秀政の女千代姫、を養ひ、豊前細川忠興の子忠利に嫁せしむ、是日、同女、輿入す、423
後陽成慶長一四年五月一九日1609仙石秀久、佐久郡正安寺に禁制を掲ぐ、426
後陽成慶長一四年六月二七日1609筑摩郡西福寺住持宗永、長国、同寺開山殊白圭岳、の書する出家略作法文等に奥書を加ふ、 宗永、筑摩郡長興寺に鎮州臨済恵照禅師語録・類字韻に識語を加ふ、426
後陽成慶長一四年1609宗鈍、鉄山、筠州の請に応じて、その祖伊那郡開善寺前住持宗販速伝、の頂相に賛す、428
後陽成慶長一四年七月四日1609仙石秀久、中沢忠三郎に知行を与ふ、429
後陽成慶長一四年七月九日1609水谷光勝、山村良勝より、駿府城御用材を請取る、 松下常慶、良勝に材木輸送を申入る、、429
後陽成慶長一四年七月一一日1609小笠原秀政、伊那郡箕輪城の鉄砲衆を領内に募る、430
後陽成慶長一四年七月二五日1609是より先、幕府、諸国に令して灰吹銀等を禁ず、是日、幕府奉行人等、木曽代官山村良安等に之を通達す、尋いで、大久保長安、同人等をして、この旨を伊那・木曽・美濃等に触れしむ、431
後陽成慶長一四年八月四日1609大久保長安、千村良重に命じ、幕府普請奉行の指図に随ひ、駿府城用材を採らしむ、433
後陽成慶長一四年八月一三日1609越前慈眼寺住持某、筑摩郡定光寺住持某に、慈眼寺への輪住を請ふ、434
後陽成慶長一四年八月一三日1609石川三長、筑摩郡筑摩社別当等の諸役を免除す、434
後陽成慶長一四年八月一四日1609伊那郡虎岩村、当年の上納帳を記す、435
後陽成慶長一四年八月一六日1609天竜川大洪水439
後陽成慶長一四年八月二二日1609伊那郡向山主水、山手の茣蓙を千村良重の手代井口弥左衛門に送る、是日、井口弥左衛門、之に答ふ、440
後陽成慶長一四年九月一〇日1609下野足利学校庠主禅珠、竜派、書信を伊那郡開善寺住持玄種蛮宿、に通ず440
後陽成慶長一四年1609真田信之の弟信勝、江戸に於いて近江膳所城主戸田氏鉄の弟勝興に斬らる443
後陽成慶長一四年1609伊那郡虎岩村、当年の年貢納帳を記す445
後陽成慶長一四年一〇月一六日1609小笠原秀政、伊那郡伊久間郷の検地を行ふ、455
後陽成慶長一四年一〇月一八日1609石川三長の家臣渡辺長次等、安曇郡山中の当年秋の麻の売買に就いて定む、470
後陽成慶長一四年一〇月二七日1609下井二郎八等、伊那郡箕輪諸郷村の荒流帳を記す、 伊那郡中関等諸村の流之帳471
後陽成慶長一四年一〇月二七日1609是より先、松平忠輝の老臣皆川広照・山田重辰等、忠輝の不行跡を徳川家康に訴ふ、是日、家康、重辰に切腹を命じ、広照等を改易す、488
後陽成慶長一四年一〇月二八日1609小笠原秀政、伊那郡上河路村開善寺分の検地を行ふ、491
後陽成慶長一四年一一月一八日1609是より先、大久保長安、水内郡飯山八幡宮に神領を寄進す、是日、某、同宮をして、之を安堵せしむ、493
後陽成慶長一四年一一月二三日1609長崎九右衛門、筑摩郡青柳問屋太兵衛より、問屋役銀を請取る、494
後陽成慶長一四年一一月二五日1609諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋いで、重ねての御渡あり、495
後陽成慶長一四年一一月二五日1609福島正則、木曽路を通り江戸に向はんとし、山城伏見を発す、 仙石秀久、福島正則の、秀久領内を通過せんとするにあたり、某に接待のことを指示す、495
後陽成慶長一四年一二月七日1609伊那郡箕輪の大泉村衆、尾張津島社に参詣す、497
後陽成慶長一四年一二月一五日1609松平忠輝、高井郡浄運寺領の諸役を免ず、497
後陽成慶長一四年一二月一六日1609信濃の人宗章竜室、山城大徳寺住持となる、498
後陽成慶長一四年一二月一八日1609伊那郡柏原惣右衛門等、某勘右衛門より薪を請取る、498