長野県立歴史館 信濃史料

「信濃史料」 巻二十一 (400頁~)


next 1頁~ next 100頁~ next 200頁~ next 300頁~ 400頁~ next 500頁~ shuroku 「信濃史料」巻別収録年代に戻る


・ 綱文(記事)をクリックすると、綱文とその出典を掲載した画面が表示されます。
天皇 年月日 西暦 記事
後水尾慶長一九年五月一一日1614小笠原秀政、筑摩郡岩殿寺をして、旧の如く同郡仁熊・東条郷等の先達たらしむ、403
後水尾慶長一九年五月一五日1614小笠原秀政、安曇郡沢渡神明社をして、祭料を安堵せしめ、また、筑摩八幡宮等諸社寺に禁制を掲ぐ、403
後水尾慶長一九年五月二一日1614小笠原秀政、筑摩郡小野社・正麟寺等に地を寄進す、尋いで、同郡兎川寺等に寺領を寄進す、406
後水尾慶長一九年五月二一日1614小笠原秀政、筑摩郡広沢寺並に同寺内竹渓庵に寺領を寄進す、408
後水尾慶長一九年六月八日1614小笠原秀政、領内諸郷に法度を頒つ、409
後水尾慶長一九年六月九日1614林小一郎、諏訪社上社に鎌を奉納す、 原縫右衛門尉、諏訪社上社に剣を奏納す、411
後水尾慶長一九年六月一三日1614伊達政宗、松平忠輝を饗す、412
後水尾慶長一九年六月二八日1614真田信之、小県郡小林九右衛門より年貢の金子を請取る、412
後水尾慶長一九年七月二日1614真田信之の家臣出浦対馬守、市場太郎左衛門をして、御職使衆に扶持米を給せしむ、413
後水尾慶長一九年七月五日1614真田信之、越後在留の伊達政宗に物を贈りて存問す、是日、政宗、之に答へ、信之の病気を問ふ、 政宗、仙石忠政の弟政直の音信に答報す、414
後水尾慶長一九年七月五日1614建仁寺開山栄西明庵、四百年忌、同寺住持慈稽、古澗、拈香仏事を修す、415
後水尾慶長一九年七月一三日1614小笠原秀政、小野七左衛門・小林弥右衛門を筑摩郡本山問屋となす、418
後水尾慶長一九年七月一七日1614仙石忠政、駿府に至り徳川家康に謁して、亡父秀久の跡目相続を謝す、419
後水尾慶長一九年七月二八日1614是より先、幕府、下野佐野城主佐野信吉を改易し、其身を松本城主小笠原秀政に預く、是日、信吉、松本に赴く、420
後水尾慶長一九年七月二八日1614美濃代官手代林次郎右衛門等、木曽山よりの流材並びに川並留置材の員数を注す、422
後水尾慶長一九年八月八日1614小笠原秀政、同忠脩、駿府に至り、徳川家康に謁す、440
後水尾慶長一九年八月二〇日1614真田信之、小県郡小林九右衛門より年貢の金子を請取る、440
後水尾慶長一九年八月二〇日1614仙石忠政、南禅寺金地院塔主崇伝以心、に音信す、441
後水尾慶長一九年八月二一日1614伊那郡下殿岡村、同村前年の年貢を納む、441
後水尾慶長一九年八月二三日1614小笠原秀政、筑摩郡開善寺に、寺領を寄進す、442
後水尾慶長一九年八月二四日1614小笠原秀政、領内に法度を頒つ、443
後水尾慶長一九年八月二五日1614小笠原秀政父子、天満天神社を筑摩郡宮村に移建し、是日、遷宮を行ふ、 小笠原秀政、筑摩郡鎌田村の天神を、松本宮村明神の社に遷す、444
後水尾慶長一九年八月二八日1614小笠原秀政、筑摩郡安楽寺に寺領を寄進す、446
後水尾慶長一九年九月三日1614松平忠輝、山田将監に水内郡田子村等を知行せしむ、446
後水尾慶長一九年九月九日1614真田信之、関口庄右衛門等に職方同使を申付く、447
後水尾慶長一九年九月一一日1614建仁寺大統院塔主慈稽、古澗、延暦寺根本中堂前の竹台の来由を相国寺慈照院塔主顕晫昕叔、に説く、448
後水尾慶長一九年九月一四日1614仙石忠政、佐久郡野沢組村々庄屋・長百姓役人等に、本年物成のことを指示す、449
後水尾慶長一九年九月一五日1614紀伊高野山大徳院、伊那郡香坂二兵衛より金子を贈らる、451
後水尾慶長一九年九月二五日1614小笠原秀政、安曇郡仁科神明等に地を寄進す、451
後水尾慶長一九年一〇月一日1614是より先、徳川家康、大坂の豊臣秀頼との間に隙あり、是日、家康、大坂征討の令を発す、明る日、仙石秀久の子秀範、秀頼に召されて大坂城に入る、453
後水尾慶長一九年一〇月三日1614堀直寄、原理兵衛に大坂従軍を命じ、知行をその父弥左衛門に預く、455
後水尾慶長一九年一〇月四日1614幕府、真田信之に、大坂出陣の用意を以つて江戸参着すべきを命ず、尋いで、信之、病を以つて、子信吉を参陣せしむ、456
後水尾慶長一九年一〇月五日1614是より先、高井郡高井野村の山城本願寺信徒等、光寿教如、に銀子を贈る、是日、光寿、寂す、458
後水尾慶長一九年一〇月九日1614真田信繁父子、大坂城に入らんとして、紀伊高野山を発す、460
後水尾慶長一九年一〇月一〇日1614真田信之、渡右馬助等に上野に於いて知行を宛行ふ、469
後水尾慶長一九年一〇月一一日1614徳川家康、大坂出陣のため、親を諸軍を率ヰて、駿府を発す、真田信尹信昌・小笠原忠脩、その陣列に加はる、470
後水尾慶長一九年一〇月一五日1614真田信之、出浦対馬守をして、新鉄砲の者に扶持を与へしむ、472
後水尾慶長一九年一〇月一七日1614是より先、徳川秀忠、松平忠輝を江戸城留守居たらしむ、是日、忠輝、埴科郡松城を発せんとす、472
後水尾慶長一九年一〇月一七日1614竹内与三右衛門等、伊那郡虎岩村の勘右衛門等より、上納の薪を請取る、474
後水尾慶長一九年一〇月二〇日1614堀直寄、高橋新兵衛等に水内郡飯山上町等の夜番の取締を命ず、 堀直寄等の書状474
後水尾慶長一九年一〇月二三日1614是より先、徳川秀忠、仙石忠政・真田信吉等信濃諸大名に大坂出陣を命じ、是日、江戸を発す、尋いで、諸大名も出陣す、小笠原秀政父子は松本城の、諏訪頼満は甲府の警固を命ぜらる、 仙石忠政、大坂参陣の士を組別す、479
後水尾慶長一九年一〇月二四日1614真田信之の室、同信吉・信政の信之に代りて大坂出陣するを、木村茂綱に報ず、489
後水尾慶長一九年一〇月二八日1614幕府、木曽山村良勝に大坂参陣を命ず、490
後水尾慶長一九年一〇月二八日1614飯川某、更級郡八幡宮神宮持をして、同社注連竹を同郡羽尾村普賢寺に於いて伐らしむ、492
後水尾慶長一九年1614筑摩郡松本宮村町屋敷取間数絵図、成る、 慶長廿年四月及び寛永十九年十月調製の宮村町家作間数絵図492
後水尾慶長一九年1614伊那郡虎岩村、本年の年貢納帳を記す、498