長野県立歴史館 信濃史料

「信濃史料」 巻二十一 (200頁~)


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天皇 年月日 西暦 記事
後水尾慶長一七年一二月三日1612幕府、保科正光等信濃の諸大名に命じ、材木を伊那山に採り、江戸に運ばしむ、200
後水尾慶長一七年一二月六日1612伊那郡殿岡の矢沢太郎兵衛、闕落人六蔵を中村孫四郎より引取る、202
後水尾慶長一七年一二月八日1612諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋いで、重ねての御渡あり、203
後水尾慶長一七年1612小笠原秀政、伊那郡木下に陣屋を設け、二木政実等諸士を配置す、204
後水尾慶長一七年1612小県郡定津院、火く、尋いで、縫殿之助、姓闕く仏殿を再建す、205
後水尾慶長一八年正月一日1613松平忠輝の使者及び堀直寄等、駿府に至り、徳川家康に加歳す、206
後水尾慶長一八年正月一日1613真田信之の家臣木村綱茂、小林九右衛門尉をして、小県郡長窪問屋を勤めしむ206
後水尾慶長一八年正月二日1613江戸城謡初、松平忠輝・小笠原秀政等、之に参列す、207
後水尾慶長一八年正月一一日1613盛海、鷲林拾葉鈔を伊那郡光前寺高浄院尊運に贈る207
後水尾慶長一八年正月二六日1613伊那郡新三郎の被官百姓孫十郎、代米を以つてその身分より放たる、218
後水尾慶長一八年正月二九日1613仙石秀久、神津里右衛門等諸士に、酒代として、米を与ふ、219
後水尾慶長一八年二月一日1613松平忠輝の家臣香取安久、長瀬村甚右衛門等を高井郡志久見山鷹巣守となす、 松平忠輝の奉行人、諸人の鷹巣山へ立入るを禁ず、221
後水尾慶長一八年二月二日1613小笠原秀政室、尾張津島社に初穂料を進む、 信濃の人、尾張津島社に参詣す、222
後水尾慶長一八年二月五日1613是より先、水内郡戸隠山顕光寺、南禅寺金地院塔主崇伝以心、に牛王札等を贈る、是日、崇伝、之に答射す、223
後水尾慶長一八年二月一五日1613仏涅槃日、建仁寺住持慈稽、古澗、上堂説法す、223
後水尾慶長一八年二月二八日1613諏訪郡荒神薬師堂阿弥陀如来像、成る、225
後水尾慶長一八年1613小笠原秀政、伊那郡仲仙寺本堂を再建す、225
後水尾慶長一八年三月七日1613諏訪頼満、頼水、領内村々の毛付高帳を幕府に指出す、 諏訪頼満、諏訪社上社大祝諏訪頼綱をして、同社領内の地を以つて、同社末社有賀内県明神神田の慶長十八年検地の際闕失せる分を補はしむ、226
後水尾慶長一八年三月一六日1613堀直寄、高井郡飯縄社及び天神堂に地を寄進す、230
後水尾慶長一八年三月二〇日1613伊那郡香坂仁兵衛、千村良重の手代久野九左衛門等に榑木手形を出す、231
後水尾慶長一八年三月二一日1613仙石秀久、佐久郡若宮八幡社人に知行を宛行ふ、 秀久、佐久郡若宮八幡社人をして、病気平癒を祈念せしむ、232
後水尾慶長一八年三月二一日1613伊那郡大島村の市丞等、蔵米を借用し、榑木にて弁済すべきを、千村手代衆に約す、 伊那郡飯沼村等の百姓、千村手代久野九左衛門等より蔵米並びに榑木借用す、232
後水尾慶長一八年三月二九日1613真田信之、矢沢頼幸等に命じ、人足を下伊那に遣はし、江戸用材伐出のことに当らしむ、241
後水尾慶長一八年四月四日1613松平忠輝、駿府に到り、徳川家康に謁す、243
後水尾慶長一八年四月七日1613諏訪郡真志野村庄五郎、同村善右衛門尉の子の幼少なるにより、その身柄を預る、243
後水尾慶長一八年四月八日1613仏誕生日、建仁寺住持慈稽、古澗、上堂説法す、244
後水尾慶長一八年四月二一日1613南禅寺金地院塔主崇伝、以心、松平忠輝の蝋燭を贈れるを謝す、245
後水尾慶長一八年四月二五日1613大久保長安、駿府に卒す、尋いで松平忠輝の家臣浦野源左衛門、長安の預籾勘定目録を駿府勘定所に指出す、246
後水尾慶長一八年五月一一日1613山城本願寺光寿、教如、水内郡勝善寺所蔵の自像に裏書を加ふ、250
後水尾慶長一八年五月一三日1613木曽山村良勝、谷中の慶長五年より同十六年までの勘定目録を駿府勘定所に指出す、 木曽代官山村良安仕出しの慶長十七・八年分土井榑木代銀勘定書251
後水尾慶長一八年五月一三日1613水内郡戸隠山本院我浄坊、知行を付せられんことを幕府に訴へんとし、その目安を南禅寺金地院塔主崇伝、以心、に指出す、254
後水尾慶長一八年五月一九日1613是より先、水内郡戸隠山賢清、寂し、慈恩寺某、嗣ぐ、慈恩寺、その謝礼のため金地院塔主崇伝以心、駿河に訪ひ、是日、戸隠山に帰る、254
後水尾慶長一八年五月二三日1613山村良勝、木曽御成箇郷帳を駿府勘定所に指出す、254
後水尾慶長一八年五月二五日1613木曽妻篭村百姓、同年年貢免除の次第を、山村良勝に指出す、256
後水尾慶長一八年六月五日1613真田信之、金井兵左衛門の屋敷番・作事以下の奉公を賞し、知行を与ふ、258
後水尾慶長一八年六月一七日1613仙石秀久、佐久郡岩村田山王社に祗園会神事料を寄進す、258
後水尾慶長一八年六月二〇日1613真田信之、窪田角左衛門に知行を与ふ、尋いで、海野藤八等にも知行を与ふ、259
後水尾慶長一八年1613小笠原秀政、百瀬甚兵衛に筑摩郡端埴原郷内の地を給す、261
後水尾慶長一八年七月一六日1613宮崎安重等、千村良重の手代久野九左衛門慰より江戸用材本切の前年扶持米代金を請取る、262
後水尾慶長一八年七月一九日1613徳川秀忠、水内郡戸隠社に神領を寄進し、同社の掟を定む、263
後水尾慶長一八年七月二九日1613堀直寄、水内郡英岩寺に地を寄進す、264
後水尾慶長一八年1613小笠原秀政、伊那郡鳩ヶ嶺八幡社を修理す、265
後水尾慶長一八年八月五日1613堀直寄、高井郡天神堂村肝煎をして、新田を開かしむ、266
後水尾慶長一八年八月一四日1613山城本願寺光昭、准如、高井郡円光寺明春所蔵の兼寿蓮如、の画像に裏書を加ふ、266
後水尾慶長一八年八月二一日1613松平忠輝の老臣花井吉成、埴科郡松城に於いて卒す、267
後水尾慶長一八年九月四日1613真田信之、金井善兵衛に当知行の替地として、小県郡房山の地を与ふ、268
後水尾慶長一八年九月九日1613伊那郡下殿岡村、年貢名寄帳を記す、268
後水尾慶長一八年九月一六日1613仙石秀久、鷲見九一郎等の知行を給す、277
後水尾慶長一八年九月一六日1613南禅寺金地院塔主崇伝、以心、石川三長に音信し、奈良墨を贈る278
後水尾慶長一八年九月一七日1613筑摩郡牛伏寺憲康、同寺大般若経を書写す、278
後水尾慶長一八年九月二一日1613真田信之、菅沼二郎右衛門を小県郡内大代官となす、278
後水尾慶長一八年九月二三日1613仙石秀久、佐久郡野沢の兵左衛門等に蔵米を給す、279
後水尾慶長一八年九月二七日1613小笠原秀政、伊那郡白山権現社の神木を伐るを禁ず、281
後水尾慶長一八年一〇月二日1613石川三長、倉科盛軌に筑摩郡松本町問屋職を命ず、282
後水尾慶長一八年一〇月一九日1613幕府、石川三長の、大久保長安と結び、知行を隠匿せるに依り、改易に処し、その身を豊後佐伯の毛利高政に預く、尋いで、小笠原秀政をして、三長の旧領を領知せしむ、282
後水尾慶長一八年一〇月二八日1613堀直寄、駿河・江戸近辺に国替を望み、その成就の祈念を、伊勢大神宮御師二見豊後守に依頼す、 直寄の二見豊後守宛の書状292
後水尾慶長一八年一二月二日1613諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋いで、重ねての御渡あり、293
後水尾慶長一八年一二月八日1613仏成道日、建仁寺住持慈稽古澗、上堂説法す、294
後水尾慶長一八年一二月一一日1613真田信之、小県郡長窪町問屋小林九右衛門より、貸金を請取る、296
後水尾慶長一八年一二月一七日1613信濃の人森山盛房、卒す、296
後水尾慶長一八年一二月二六日1613鹿島清左衛門等、見崎喜兵衛より慶長十五年分夫銀を請取る、297
後水尾慶長一八年1613小笠原秀政、伊那郡飯田より筑摩郡松本に移り、家臣等の知行割を行ふ、また、飯田領内の寺を松本に移す、 秀政、松本に移らんとし、これを犬甘外記に報ず、298