長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻二十一 (500頁~)
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後水尾
慶長一九年一一月三日
1614
徳川家康、真田信尹信昌、等を大坂の陣中目付となす、
505
後水尾
慶長一九年一一月四日
1614
是より先、矢沢頼幸、真田信吉に随ひ大坂に出陣す、是日、真田信之、頼幸に書を送り、信吉の扶助を托す、
506
後水尾
慶長一九年一一月五日
1614
小笠原秀政、安曇郡千見城番及び松本城留守番を定む、
507
後水尾
慶長一九年一一月五日
1614
某小兵衛、高井郡中島村の年貢米を請取る、
510
後水尾
慶長一九年一一月七日
1614
安曇郡借馬村、同村の検地名寄帳を記す、尋いで定納帳を記す、
510
後水尾
慶長一九年一一月八日
1614
小笠原忠脩、大坂参陣の途次、近江長沢に於いて徳川秀忠に謁す、
542
後水尾
慶長一九年一一月一一日
1614
真田信之の子信吉・信政兄弟、京都に着す、尋いで、大坂に参陣す、
543
後水尾
慶長一九年一一月一一日
1614
小笠原忠政、安曇郡田原主馬丞等の奉公を賞し、米を給す、
545
後水尾
慶長一九年一一月一二日
1614
真田信繁等、大坂天王寺の徳川勢の陣を攻撃すべきを、大野治長等に進言して容れられず、
546
後水尾
慶長一九年一一月一三日
1614
是より先、幕府、東山・東海両道要所に関所を置きて行人を検せしめ、山村良安・千村良重・知久則直等をして、木曽贄川・妻篭・伊那郡浪合等を守らしむ、是日、知久則直に令し、手形なきものの浪合関通過を禁ぜしむ、
546
後水尾
慶長一九年一一月一四日
1614
小笠原忠政、渋田見縫殿助等に条目を付し、松本城内外のことを取締らしむ、
551
後水尾
慶長一九年一一月一四日
1614
信濃の人山城大徳寺前住持宗章、竜室、寂す、
552
後水尾
慶長一九年一一月一五日
1614
徳川家康、京都を発し、大坂に赴かんとす、堀直寄、その先鋒たらんとして容れられず、後備を命ぜらる、
553
後水尾
慶長一九年一一月一五日
1614
小笠原忠政、小沢縫殿介をして、その父の知行所を安堵せしむ、
554
後水尾
慶長一九年一一月一七日
1614
徳川家康、諸軍の陣列を定め、仙石忠政・真田信吉等を酒井家次の配下に入れ、青屋口住吉に陣せしむ、
555
後水尾
慶長一九年一一月一七日
1614
是より先、保科正光、山城淀城に在番し船橋の横目を命ぜらる、是日、上杉景勝、正光に野陣道具・兵糧等積載の船舶の通過を請ふ、
556
後水尾
慶長一九年一一月一七日
1614
小笠原秀政、筑摩郡広沢寺住持に大坂出陣の叶はざるを歎き、併せて子忠脩の出陣等のことを報ず、
556
後水尾
慶長一九年一一月一九日
1614
真田信之、小林九右衛門より金子を請取る、 信之、小林九右衛門より金子を請取る、
559
後水尾
慶長一九年一一月二一日
1614
小笠原秀政、筑摩・安曇両郡の闕落百姓還住等につき、条目を示す、
559
後水尾
慶長一九年一一月二一日
1614
小笠原秀政の家臣春日淡路、安曇郡一本木村の検地定納帳を記し、尋いで、安曇郡小室村検地定納帳を記す、
560
後水尾
慶長一九年一一月二四日
1614
伊達政宗、松平忠輝の老臣花井義雄の、政宗の営を訪ひしを謝す、
565
後水尾
慶長一九年一一月二四日
1614
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋いで、重ねての御渡あり、
565
後水尾
慶長一九年一一月二五日
1614
松平忠輝の使者花井義雄、徳川家康に謁す、
566
後水尾
慶長一九年一一月二六日
1614
本多忠朝、摂津今福に陣し、真田信吉・同信政・仙石忠政等、之が後陣相備となる、
566
後水尾
慶長一九年一一月二六日
1614
是より先、小笠原忠脩の家臣大輪監物、同元久の父より勘当せらる、是日、元久、その和宥の取成を大坂陣中の等々力次右衛門尉に乞ふ、
568
後水尾
慶長一九年一一月二七日
1614
堀直寄、徳川家康の命のより、水野勝成等と共に、摂津穢多ヶ崎・同新家居の巡視を行ふ、
568
後水尾
慶長一九年一一月二八日
1614
小県郡東昌持住持昌隆、盛応、宗林姓闕くの請に応じ、道号の二大字を与へ、その説を作る、
570
後水尾
慶長一九年一一月三〇日
1614
小笠原忠脩、陣中より松本の小笠原政信に陣況を報じ、軍用金及び兵糧を催促し、且つ留守居の番を堅固にせしむ、
571
後水尾
慶長一九年一二月一日
1614
仙石忠政、摂津住吉に至り、徳川家康に謁す、尋いで、堀直寄、旗本に召さる、
572
後水尾
慶長一九年一二月四日
1614
徳川家康、大坂城外茶臼山に陣し、諸勢をして真田信繁の陣を攻めしむ、信繁、之を破る、
573
後水尾
慶長一九年一二月六日
1614
真田信之、大坂在陣の小山田之知等に、書を送り、病気恢復を待つて自ら参陣せんとする旨を告ぐ、
580
後水尾
慶長一九年一二月八日
1614
伊那郡の百姓又次郎、本年の年貢未進により、香坂仁兵衛に田地を渡す、
581
後水尾
慶長一九年一二月一四日
1614
本多正純、真田昌尹昌信、を本多正重の許に遣はし、真田信繁を徳川家康方に属せしめんことを計らしむ、尋いで、信繁、之を斥く、
582
後水尾
慶長一九年一二月一九日
1614
仙石忠政、摂津岡山に至り、徳川家康に謁す、
583
後水尾
慶長一九年一二月二〇日
1614
小笠原秀政の家臣光三郎左衛門等、安曇郡大沢寺寺領の年貢定納高を定む、
584
後水尾
慶長一九年一二月二〇日
1614
真田信之の家臣出浦対馬守、市場太郎左衛門をして、渡右馬助等に蔵米を渡さしむ、
585
後水尾
慶長一九年一二月二四日
1614
小笠原秀政、安曇郡大沢寺・筑摩郡牛伏寺に寺領を寄進す、
586
後水尾
慶長一九年一二月二七日
1614
本多正純、知久則直の物を送れるを謝し、伊那郡浪合関警固を厳重にすべきを命ず、
587
後水尾
慶長一九年
1614
小笠原秀政の子忠知、従五位下壱岐守となり、川中島に於いて五千石を与へらる、
588
後水尾
慶長一九年
1614
小笠原忠脩、筑摩郡浅間に法性寺を創建し、岡甫和尚を請じて開山とす、また忠脩の母延寿院、本立寺を松本に建立して、日禛を開祖となす、この外、忠脩、同郡広沢寺等に寺領を寄附し、伊那郡箕輪の殿村八幡を修造す、
589
後水尾
慶長一九年
1614
伊那郡虎岩村、本年の種借納帳を記す、
591