長野県立歴史館 信濃史料

「信濃史料」 巻二十三 (300頁~)


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天皇 年月日 西暦 記事
後水尾元和六年1620酒井忠勝、水内郡徳間東条等領内北国街道の諸宿を伝馬町となし、諸役を免ず、303
後水尾元和六年一二月一七日1620保科正光、上島安千世をして、父の跡式を安堵せしむ、306
後水尾元和六年一二月一九日1620井上庸名の家臣大村六大夫、伊那郡大草村庸名知行分の村高を記す、307
後水尾元和六年一二月二六日1620水内郡平柴村の次郎右衛門、同村百姓の納年貢を書上ぐ、309
後水尾元和六年1620諏訪社上社宝殿、成る、310
後水尾元和六年1620水内郡横沢町、本年の年貢を皆済す、310
後水尾元和六年閏一二月一〇日1620福島正則、小河梅千代の帯を贈れるを謝す、 正則の小河梅千代宛書状311
後水尾元和六年閏一二月一九日1620福島正則、高井郡間山村の勘右衛門をして、同郡西条村の荒地を開発せしむ、313
後水尾元和六年閏一二月二八日1620今田与右衛門等、伊那郡今田村神主吉沢甚丞に関する訴訟を、来春まで延期せられんことを、大平新左衛門に依頼す、314
後水尾元和六年1620筑摩郡の作右衛門等、尾張津島社に詣づ、315
後水尾元和六年1620幕府、高遠城主保科正光に、大阪城番を命ず、316
後水尾元和七年正月一日1621山城建仁寺住持慈稽、古澗、上堂説法す、320
後水尾元和七年正月二〇日1621仙石忠政の弟同政直、卒す、321
後水尾元和七年正月二一日1621仙石忠政、片岡彦左衛門等をして、佐久郡望月組庄屋にそれぞれ荒地三反分を与へ、之を開発せしむ、322
後水尾元和七年正月二三日1621尾張藩主徳川義利義直、の江戸の新亭、災火に羅る、真田信之・仙石忠政等諸大名の亭も、類焼す、323
後水尾元和七年二月一日1621是より先、吉沢甚丞、諏訪社上社大祝の被官となり祝に任ぜらるるも、同社権祝等の反対に依り、罷めらる、是日、甚丞、伊那郡今田村の祢宜にならんとし、森本善右衛門等にその取成を依頼す、324
後水尾元和七年二月三日1621脇坂安元、伊那郡殿村勘兵衛の畠地を田地に替へんとするを許す、325
後水尾元和七年二月九日1621脇坂安元の家臣下津屋景信、伊那郡座光寺村の孫左衛門をして、同郡小和田村の新田を開き、百姓に分け作らしむ、325
後水尾元和七年二月一五日1621仏涅槃日、山城建仁寺住持慈稽、古澗、上堂説法す、327
後水尾元和七年二月一六日1621仙石忠政の家臣片岡彦左衛門、佐久郡海瀬村茂右衛門をして、同村内に新田を開かしむ、329
後水尾元和七年二月一六日1621真田信之の家臣出浦昌相、小県郡助右衛門をして、桜井市左衛門代官所内に於いて、砥石を堀らしむ、329
後水尾元和七年二月一七日1621伊那郡代官宮崎安重、卒す、330
後水尾元和七年二月二〇日1621伊那郡斉藤善二郎、同郡下黒田の又左衛門の罪を許し篭舎を免ず、仍りて、又左衛門、善二郎の意に叛かざる旨を約す、332
後水尾元和七年二月二四日1621真田信之、亡妻大蓮院、の一周忌にあたり、小県郡大英寺に墓碑を建立す、333
後水尾元和七年三月七日1621真田信之、小県郡有坂新町をして、郡中闕落百姓を招集め、同地を開発せしむ、335
後水尾元和七年三月七日1621伊那郡大草村二郎右衛門等、近藤茂直百千代、の代官より種米を借用す、338
後水尾元和七年1621幕府、福島正則の江戸の邸地を、備前岡山城主池田忠長忠雄、に与ふ、338
後水尾元和七年四月四日1621伊那郡某村の権左衛門等、同村元和三・四年よりの年貢帳簿の借覧を代官五郎右衛門に重訴す、339
後水尾元和七年四月一〇日1621仙石忠政の家臣恵崎久清、佐久郡平原の茂左衛門等より蔵籾売付代金を請取る、 恵崎久清、市之丞等より蔵米売付米代金を請取る、340
後水尾元和七年四月二三日1621神道管領長上吉田兼英、川中島四郡の社家をして、冨士参詣檀那の引導を勤めしむ、 高井郡の邑主堀直升、領内衆庶の諸山参詣の先達を、旧の如く山城聖護院の命ずる年行事職に任すべきを約す、342
後水尾元和七年四月二三日1621伊那郡遠山七郎右衛門等、千村良重の手代中山吉左衛門に、同郡遠山の元和六年物成勘定書を指出す、344
後水尾元和七年1621高井郡西条村庄屋市右衛門等、同郡間山村新開予定地を、旧の如く西条村の秣場として存置せんことを間山村に請ふ、346
後水尾元和七年五月五日1621朝日次兵衛、伊那郡平沢新十郎に、元和二年の残米を同郡遠山表へ渡せしことを報ず、347
後水尾元和七年五月一九日1621信濃の代官石原新左衛門、卒す、347
後水尾元和七年1621是より先、安芸広島城主浅野長晟の老臣浅野忠吉、諏訪社神長守矢信真の玉会等を送れるを謝す、是月、忠吉、卒す、348
後水尾元和七年六月七日1621恵崎久清、佐久郡平原の小平次等をして、綿手・花手の代米を佐久郡草越等諸村に渡さしむ、349
後水尾元和七年六月一三日1621伊那郡下殿岡村、元和六年の年貢米並びに借米の皆済を促す、355
後水尾元和七年1621筑摩郡洞光寺の真言八祖図像の修理、成る、358
後水尾元和七年1621伊那郡高浄院尊応、簠簋内伝金鳥玉兎集を添削校合す、358
後水尾元和七年七月六日1621真田信之、矢沢頼幸等をして、普請人足を調達せしむ、359
後水尾元和七年七月一一日1621伊那郡興禅寺住持宗晏、清叔、寂す、360
後水尾元和七年七月一五日1621保科正光、伊那郡竜勝寺に、同郡勝間郷内同寺手作分を寄進す、365
後水尾元和七年七月一五日1621酒井忠勝の家臣高木伝兵衛、更級郡中牧勘兵衛をして、同人屋敷付の山を安堵せしむ、366
後水尾元和七年八月三日1621伊那郡虎岩村の百姓、肝煎平沢新十郎・彦右衛門に、当年年貢并びに前年の増米を皆済すべきを約す、 虎岩村百姓等、元和六年分増米を納む、366
後水尾元和七年八月一〇日1621是より先、幕府、江戸城御殿用材の伐出を大工頭鈴木長次に命ず、是日、長次、木曽山に採るべき材木の注文を幕府に進む、依りて、幕府、之を尾張藩国老成瀬正成等に命じ、同用材を伐出さしむ、369
後水尾元和七年八月一三日1621伊那郡上飯田村年貢帳、成る、373
後水尾元和七年1621上伊那郡高遠町諏訪神社の高欄の擬宝珠、成る、380
後水尾元和七年九月四日1621伊那郡市田安養寺、同寺の門徒積室の、西堂昇位の職銭を請取る、380
後水尾元和七年九月一六日1621真田信之、小県郡田沢料所の川成地を改む、381
後水尾元和七年九月一七日1621尾張藩国老成瀬正成等、山村良勝をして、幕府用材を木曽山に採らしむ、383
後水尾元和七年九月一八日1621水内郡長沼城主佐久間勝之、山城南禅寺金地院塔主崇伝以心、に白辛子・杏仁を贈る、383
後水尾元和七年九月一八日1621信濃善光寺大本願比丘尼誓信、諦善、参内す、383
後水尾元和七年九月一八日1621僧宗雪、嶺室、佐久郡城光院に入院す、384
後水尾元和七年一〇月二日1621脇坂安元の家臣松本九左衛門、伊那郡下殿岡村与右衛門をして、百姓の未進年貢の納入を促さしむ、384
後水尾元和七年一一月一日1621松平康長の家臣林喜左衛門、筑摩郡保福寺問屋に令して、諸木の上前取るを禁ぜしむ、386
後水尾元和七年一一月五日1621小県郡深井郷、同郷の高辻を奉行所に書上ぐ、386
後水尾元和七年一一月六日1621伊那郡大草村、同村の村高を書上ぐ、387
後水尾元和七年一一月九日1621福島正則、高井郡間山村明王院をして、正則寄進分の地を安堵せしむ、388
後水尾元和七年一一月一〇日1621酒井忠勝の家臣柴谷宗次等、高井郡福島村の理右衛門をして、新田を開かしむ、389
後水尾元和七年一一月一三日1621真田信之、小沢左助等に知行を与ふ、390
後水尾元和七年一一月一五日1621真田信之、日置豊後に桜井分の地を預け、小県郡大窪・岡村の地下人を被官となさしむ、391
後水尾元和七年一一月一五日1621真田信之、上田町奉行金井善兵衛等より、前年塩役金を請取る、391
後水尾元和七年一一月一六日1621佐久間勝之、水内郡落影村等の所役を免じ、田畠を開発せしむ、392
後水尾元和七年一一月二一日1621真田信之、小県郡信綱寺寺内に於いて竹木を伐ること等を禁ず、392
後水尾元和七年一一月二二日1621福島正則、高井郡中島村等を検地す、 福島領内に於けるこの年代の検地帳393