長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻二十三 (500頁~)
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西暦
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後水尾
元和八年一〇月五日
1622
達磨忌、山城建仁寺住持慈稽、古澗、拈香仏事を修す、
502
後水尾
元和八年一〇月一〇日
1622
尾張藩国老成瀬正成等、幕府の命を請け、山村良勝をして、鎌倉鶴岡八幡宮造営用材木を木曽にて伐らしむ、
502
後水尾
元和八年一〇月一三日
1622
真田信之、埴科郡松城城移封のことを、出浦昌相に報ず、 信之の上田在封中の書状並びに小県郡分限帳
503
後水尾
元和八年一〇月一四日
1622
尾張藩国老竹腰正信、幕府の命を請け、木曽山村良勝をして、三河吉田橋用材を重ねて木曽山より伐出せしむ、 吉田橋用材流失に関する文書
547
後水尾
元和八年一〇月二〇日
1622
伊那郡下殿岡村肝煎与右衛門等、脇坂安元の家臣武久内蔵丞より、本年の役榑代米を預かる、
550
後水尾
元和八年一一月七日
1622
六川与右衛門、本年分年貢代金を納む、
551
後水尾
元和八年一一月一二日
1622
伊那郡虎岩村百姓等、榑木代米を納む、
551
後水尾
元和八年一一月一三日
1622
小県郡上下新張・別府諸村の年貢帳、成る、
552
後水尾
元和八年一一月一八日
1622
真田信之、京都の小野お通真田信政の妾に、上田城より、埴科郡松城に移れるを報ず、
560
後水尾
元和八年一一月一八日
1622
山村甚兵衛の用人磯野六右衛門等、木曽妻篭村元和五・六・七年分の年貢勘定帳を預る、
563
後水尾
元和八年一一月二一日
1622
神道管領長上吉田兼英、信濃十二郡の社家に条目を頒つ、
563
後水尾
元和八年一一月二一日
1622
神道管領長上吉田兼英、水内郡春日村諏訪大明神祠官宮下吉正に風折鳥帽子・狩衣の着用を允可す、
564
後水尾
元和八年一一月二二日
1622
冬至、山城建仁寺住持慈稽、古澗、上堂説法し、秉払を行ひ、翌日上堂してその頭首永洪筠天、に謝す、
565
後水尾
元和八年一一月二五日
1622
小県郡楢原村、同村の本年年貢帳を記す、
568
後水尾
元和八年一一月二五日
1622
松平康長、筑摩郡保福寺町の九右衛門をして上下荷物・白木の問屋たらしむ、
574
後水尾
元和八年一一月二八日
1622
佐久郡高野町の杉庵、高見沢少左衛門より金子を借用す、
575
後水尾
元和八年
1622
伊那郡上飯田村孫太夫、同村長蔵と田地・屋敷等を相博す、
575
後水尾
元和八年一二月八日
1622
幕府代官高室昌成、上田城主仙石忠政に、小県郡及び河中島の所領村高目録を交付す、
576
後水尾
元和八年一二月八日
1622
伊那郡伊豆木の小笠原長巨、人を三河足助に遣はさんとし、同郡浪合口留番所にその通過を依頼す、
611
後水尾
元和八年一二月一四日
1622
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋いで、重ねての御渡あり、
611
後水尾
元和八年一二月一五日
1622
佐久郡内村高及び金山・巣鷹等の書上帳、成る、
613
後水尾
元和八年一二月二八日
1622
孫太夫、伊那郡飯田本町惣四郎等より元和二年古米を請取る、
616
後水尾
元和八年
1622
保科正貞、伊那郡高遠を去り、伊勢長島の松平定勝に寄食す、
617
後水尾
元和八年
1622
佐久郡貞祥寺住持芳達、大翁、同寺を退き、同郡大徳寺に遷る、尋いで、埴科郡法泉寺住職秀浦、倍蔓、貞祥寺住持となる、
618