長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻二十四 (200頁~)
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後水尾
寛永元年一〇月四日
1624
戸田康長、安曇郡満願寺に定書を掲ぐ、 満願寺祐宝の祈祷札
206
後水尾
寛永元年一〇月五日
1624
小県郡上丸子村、松平忠利忠節、の奉行所に年貢皆済等のことを誓約す、
207
後水尾
寛永元年一〇月六日
1624
真田信之、海野兵右衛門等に地を給す、
209
後水尾
寛永元年一〇月一二日
1624
佐久郡百姓等、同郡大徳寺に寺領を寄進す、
209
後水尾
寛永元年一〇月二四日
1624
真田信之、亡妻皓月大姉、のため埴科郡松城大英寺に位牌堂を造立す、
210
後水尾
寛永元年一〇月二四日
1624
幕府代官青木俊定等、高井郡犬飼村等の本年年貢を割付く、
210
後水尾
寛永元年一一月一日
1624
是より先、伊那郡今田の甚丞、諏訪社大祝諏訪頼寛を頼み、同社権祝矢沢綱政の檀那所を違乱す、是日、綱政、伊那郡野池新左衛門尉等に之を停止せられんことを請ふ、 野池新左衛門の書状
214
後水尾
寛永元年一一月七日
1624
幕府代官近山安俊等、高井郡西条新田村等に本年年貢を割付く、
216
後水尾
寛永元年一一月九日
1624
幕府留守居酒井忠利、常陸水戸より伊那郡浪合関を通り三河に至る間の人改番所に、鰹部三郎右衛門妻子の通行のことを依頼す、
219
後水尾
寛永元年一一月一三日
1624
佐久郡小諸城主松平忠憲、憲良、佐久郡平原村の年貢高を定む、
220
後水尾
寛永元年一一月一三日
1624
九郎右衛門、伊那郡下殿岡村与右衛門より、榑木の代米を請取る、
220
後水尾
寛永元年一一月二七日
1624
真田信之、高井郡福島村本田・新田の免相を定む、 信之、福島の理右衛門より年貢金を請取る、
221
後水尾
寛永元年一一月二九日
1624
真田信之、西村助右衛門の信之料馬治療の功を賞し、知行を与ふ、
222
後水尾
寛永元年一二月二日
1624
徳川忠長の家臣田中政長、佐久郡取出町等の本年年貢高を定む、
223
後水尾
寛永元年一二月二日
1624
徳川忠長の家臣平岡吉道、佐久郡本新町村の本年年貢高を定む、
224
後水尾
寛永元年一二月八日
1624
山城本願寺光昭、准如、高井郡円光寺所蔵の親鸞画像に裏書を加ふ、
225
後水尾
寛永元年一二月八日
1624
仏成道日、山城建仁寺住持慈稽、古澗、上堂説法す、
225
後水尾
寛永元年一二月九日
1624
真田信之、埴科郡松城本誓寺をして、寺領を安堵せしめ、禁制を掲ぐ、
226
後水尾
寛永元年一二月一三日
1624
幕府代官青木俊定等、高井郡下木島村百姓をして、同郡上木島村に於いて薪・馬草を採らしめんとし、之を上木島村に報ず、
227
後水尾
寛永元年一二月一六日
1624
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋いで、重ねての御渡あり、
227
後水尾
寛永元年一二月二四日
1624
真田信之の女,見樹院、その母菩提の為め、三十六歌仙の板絵を埴科郡松城大英寺に寄進す、
228
後水尾
寛永元年
1624
真田信之、金井渡右衛門に知行を給す、
229
後水尾
寛永元年
1624
筑摩郡徳雲寺広呑、八識之切紙等を書す、
229
後水尾
寛永元年
1624
筑摩郡徳雲寺、同寺檀那帳を注す、
230
後水尾
寛永元年
1624
山村良勝の子良豊、徳川秀忠に目見えす、
232
後水尾
寛永元年
1624
諏訪郡上川・宮川等満水により、同郡安国寺、朱印・什物等を流失す、
232
後水尾
寛永元年
1624
信濃の人布下豊明、卒す、
233
後水尾
寛永二年正月元日
1625
歳旦、山城建仁寺住持慈稽、古澗、上堂説法す、
234
後水尾
寛永二年正月三日
1625
千村良重の手代井口弥左衛門、向山次左衛門に榑木山より帰着せるを報ず、
236
後水尾
寛永二年正月一九日
1625
脇坂安元の家臣下津屋景信等、伊那郡浪合口留番所に、同家中垣屋掃部の下女の、同所通過を依頼す、
237
後水尾
寛永二年二月三日
1625
真田信之、山中料所・給所につき置目を定む、
237
後水尾
寛永二年二月四日
1625
福島正利、高井郡三王島村に新田開発を命ず、 福島正利、三王島・押切村用水出入のことにつき、孫介に出頭を命ず、
238
後水尾
寛永二年二月六日
1625
真田信吉、堀田小三郎に知行を与ふ、
241
後水尾
寛永二年二月八日
1625
松平忠憲、憲良、佐久郡式部新田村の式部大夫をして、同郡入布施村荒地を開発せしむ、
241
後水尾
寛永二年二月一三日
1625
筑摩郡洗馬村の三村善次郎門百姓弥左衛門、百姓に取立てられ、請文を指出す、
242
後水尾
寛永二年二月一八日
1625
松平忠憲、憲良、佐久郡箕輪の三郎左衛門等をして、同郡下県村荒地等を開発せしむ、
242
後水尾
寛永二年二月二四日
1625
真田信之、亡妻皓月大姉、の位牌所埴科郡大英寺に灯篭を寄進す、
243
後水尾
寛永二年二月二八日
1625
伊那郡南山の百姓、前年十二月より本年三月までの紙の売値を千村奉行所に報す、
244
後水尾
寛永二年三月一日
1625
幕府留守居酒井忠利、上野白井より信濃伊那を経て三河岡崎に到る諸関に、三河岡崎城主本多忠利家中女房等の通行のことを依頼す、
245
後水尾
寛永二年三月一日
1625
新九郎等、伊那郡虎岩村の平沢新十郎より種籾を借用す、
245
後水尾
寛永二年三月四日
1625
松平忠憲、憲良、佐久郡相木の折右衛門等に、同郡香坂の宮平荒地の開発を許す、
246
後水尾
寛永二年三月八日
1625
真田信之の家臣細田忠兵衛等、更級郡五明村了順坊抱地の諸役を免ず
246
後水尾
寛永二年
1625
是より先、佐久郡春日村と同郡前山村、同郡横沢の所属につき相論す、是月、市川五郎右衛門等、之を裁定す、
247
後水尾
寛永二年
1625
伊那郡福与村福与家の小作帳、成る、
250
後水尾
寛永二年四月一二日
1625
是より先、松城二の丸、災火に罹る、是日、真田信之、小山田之知等に普請を命ず、
254
後水尾
寛永二年四月一六日
1625
真田信之、矢野半左衛門に同心十人を預く、
256
後水尾
寛永二年五月三日
1625
千村良重の手代井口弥左衛門、向山主水の病気を慰問し、前年の払金請取手形を出す、 山村良勝等より向山主水宛の書状
257
後水尾
寛永二年五月三日
1625
脇坂安元の家臣井村五郎右衛門、伊那郡上飯田村の前年の明屋敷古起分年貢を皆済せるを証す、
261
後水尾
寛永二年五月一七日
1625
千村良重等、尋いで、同重綱、伊那郡の向山次左衛門に書を寄せて父主水の死を悼み、その跡式・諸勘定等の入精方を求む、 井口弥左衛門尉、向山次左衛門に書を送り、くりんの山の訴訟につき指示す、
262
後水尾
寛永二年六月一五日
1625
筑摩郡神林村三社大明神祠官宮沢義友等、同社縁起を記す、
267
後水尾
寛永二年六月二六日
1625
木曽島崎作大夫等、井口弥左衛門より、榑木の前渡金子を請取る、
269
後水尾
寛永二年七月五日
1625
大夫等、伊那郡虎岩村の平沢新十郎より干柿の代米を前借す、
269
後水尾
寛永二年七月一四日
1625
真田信之、小川源介等に知行を給す、
271
後水尾
寛永二年七月二一日
1625
向山次左衛門、伊那郡野口村元和六年・同九年年貢勘定書を千村良重の手代井口弥左衛門等に指出す、
272
後水尾
寛永二年七月二三日
1625
大夫等、伊那郡虎岩村の平沢新十郎より油の代米を請取る、
275
後水尾
寛永二年七月三〇日
1625
真田信之、高井郡福島村横田理右衛門より、前年納払方の金子を請取る、
276
後水尾
寛永二年
1625
建仁寺大統院塔主慈稽、古澗、山城珍皇寺の鐘銘を製す、
276
後水尾
寛永二年八月八日
1625
水内郡性乗寺僧存左、一州派下密参録を書写す、
277
後水尾
寛永二年八月一五日
1625
真田信之、海野宮内等に知行を給す、
278
後水尾
寛永二年八月一八日
1625
安藤直次、木曽福島関守山村良勝に、紀伊徳川頼宣の家臣松平三郎兵衛の妻子等の、同関通過を依頼す、
279
後水尾
寛永二年八月二七日
1625
幕府、佐久郡芦田宿等中山道諸宿に条目を頒つ、 幕府、撰銭に関する法令を出す、
280
後水尾
寛永二年八月二九日
1625
伊那郡虎岩村、寛永元年分の年貢を皆済す、
283
後水尾
寛永二年八月二九日
1625
脇坂安元、伊那郡虎岩村平沢新十郎より、年貢を請取る、
284
後水尾
寛永二年
1625
真田信吉、鈴木采女等をして訴訟のことにあたらしむ、
285
後水尾
寛永二年九月三日
1625
佐久郡中在家の与右衛門等、井出善十郎より金子を借用す、
286
後水尾
寛永二年九月八日
1625
宮崎景次等、伊那郡浪合口留番所に、播麿明石城主小笠原忠政の家臣犬飼半左衛門室の使者の、同所通過を依頼す、
287
後水尾
寛永二年九月一五日
1625
真田信之、大熊靭負に知行を加給す、
288
後水尾
寛永二年九月一五日
1625
脇坂安元、伊那郡虎岩村平沢新十郎より本年の上納綿を請取る、
288
後水尾
寛永二年九月二六日
1625
伊那郡上飯田村の肝煎長蔵、同村の前年分万納方目録を、脇坂安元の家臣井村五郎右衛門に指出す、
289
後水尾
寛永二年一〇月七日
1625
仙石忠政、小県郡横尾村等領内諸村の本年年貢高を定む、
290