長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻二十四 (500頁~)
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後水尾
寛永四年
1627
伊那郡虎岩村平沢新十郎等、同村組分定書を脇坂内膳・同覚兵衛に差出す、
524
後水尾
寛永四年九月一〇日
1627
真田信之、水内郡笹平村を検地す、 真田領内の高井郡相之島村検地帳
525
後水尾
寛永四年九月二一日
1627
脇坂安元、伊那郡虎岩村平沢新十郎をして、同村つくへ原隠畑の年貢を納付せしむ、
529
後水尾
寛永四年九月二四日
1627
仙石忠政、小県郡諏訪部村領内諸村の本年年貢高を定む、尋いで、同郡横尾村等諸村の本年年貢高を定む、
530
後水尾
寛永四年九月二八日
1627
脇坂内膳、伊那郡虎岩村に令して、納期内に年貢を納付せしむ、
544
後水尾
寛永四年一〇月三日
1627
是より先、保科正光の養子左源太、卒す、是日、追善のため法会あり、
545
後水尾
寛永四年一〇月六日
1627
野間三右衛門、戸田康長の松本奉行所に筑摩郡薄宮柱立人足を諸郷より出されんことを請ふ、尋いで、之を聴さる、
545
後水尾
寛永四年一〇月九日
1627
脇坂安元の家臣冨郷五郎右衛門、伊那郡虎岩村の前年年貢等を皆済せるを証す、 脇坂安元の家臣今井九郎二郎、虎岩村より漆年貢を請取る、
546
後水尾
寛永四年一〇月三〇日
1627
松平忠憲、憲良、佐久郡平原村の本年免相を定む、
548
後水尾
寛永四年一一月三日
1627
徳川家光、知久則直に、伊那郡川野郷等三千石の領知状を与ふ、
548
後水尾
寛永四年一一月五日
1627
幕府代官天羽景慶等、高井郡箕作村に本年年貢を割付く、
549
後水尾
寛永四年一一月五日
1627
真田信之、栃原武介に知行を加給す、尋いで、鈴木八兵衛に知行を加給す、
550
後水尾
寛永四年一一月一三日
1627
佐久郡吉六、奉公不所存により、同郡井出次久より罰せられんとするも、村中の仲介を以つて許さる、是日、吉六、以後違乱なきを次久に誓約す、
551
後水尾
寛永四年一一月一六日
1627
幕府代官青木俊定等、高井郡一本木村を検地す、 高井郡内幕府領の検地帳
552
後水尾
寛永四年一一月二〇日
1627
幕府代官近山安俊等、高井郡間長瀬新田村源右衛門の同新田村開発の功を賞し、屋敷田の年貢役諸を免ず、
569
後水尾
寛永四年一二月四日
1627
近山安俊等、高井郡西条新田村等に本年年貢を割付く、
570
後水尾
寛永四年一二月四日
1627
伊那郡虎岩村の平沢新十郎、同村又八郎に年貢皆済手形を渡す、
574
後水尾
寛永四年一二月九日
1627
徳川忠長の家臣石原正種、佐久郡本新町村に本年年貢高を定む、
575
後水尾
寛永四年一二月一〇日
1627
佐久間勝之、山城南禅寺金地院塔主崇伝、以心、に音信す、
576
後水尾
寛永四年一二月一一日
1627
徳川忠長の家臣田中政長、佐久郡宿岩村等に本年年貢高を定む、
576
後水尾
寛永四年一二月一四日
1627
真田信之の子真田信重、井坂庄右衛門に知行を給す、
577
後水尾
寛永四年一二月一六日
1627
長作等、筑摩郡青柳太兵衛等より金子を借用す、
578
後水尾
寛永四年一二月二〇日
1627
高井郡の邑主小笠原忠知、同郡塩野村才兵衛をして、同郡塩野原新田を開発せしむ、
578
後水尾
寛永四年一二月二五日
1627
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋いで、重ねての御渡あり、
579
後水尾
寛永五年正月一六日
1628
脇坂安元の家臣下津屋景信等、伊那郡浪合口留番所に、同家中の者の同所通過を依頼す、
580
後水尾
寛永五年二月一一日
1628
山城南禅寺金地院塔主崇伝、以心、佐久間勝之に音信す、尋いで、勝之、崇伝に返信す、
580
後水尾
寛永五年二月一七日
1628
小川次郎右衛門等、伊那郡野池村新左衛門等に、同郡今田村用水懸樋の木材を、野池・法全寺両村山内に於いて伐採するを許す、
581
後水尾
寛永五年二月一九日
1628
幕府留守居日下部宗好等、尾張藩老臣成瀬正虎をして、木曽福島関に、以後同所通過の手形に宗好等の印判を用ふべきを達せしむ、
582
後水尾
寛永五年三月五日
1628
与助、伊那郡大草村香坂仁兵衛と田地を交換す、
582
後水尾
寛永五年三月二七日
1628
脇坂安元の家臣今井九郎二郎、伊那郡虎岩村より、つかみ竹を請取る、 脇坂安元の家臣国木田清大夫、虎岩村よりつかみ竹を請取る、
583
後水尾
寛永五年四月二日
1628
脇坂安元の家臣井村五郎右衛門、伊那郡上飯田村の前年出来分年貢米を皆済せるを証す、
587
後水尾
寛永五年四月八日
1628
仏誕生日、山城建仁寺住持慈稽、古澗、上堂説法す、
587
後水尾
寛永五年四月一三日
1628
水内郡大安寺住持栄盛、正盛、安室、寂す、
588
後水尾
寛永五年四月二〇日
1628
上田城主仙石忠政、江戸に卒す、
589
後水尾
寛永五年五月四日
1628
徳川義直、義利、木曽路を経て下野日光に赴かんとし、是日、福島宿に宿泊す、
611
後水尾
寛永五年五月八日
1628
山村良勝、上野横川関番に、古田兵九女房の同所通過を依頼す、
612
後水尾
寛永五年六月七日
1628
源兵衛、熊谷九兵衛等をして、木挽人足を伊那郡高遠城へ遣はさしむ、 武兵衛の九兵衛宛書状
613
後水尾
寛永五年六月二一日
1628
脇坂安元の家臣松原秀政、伊那郡虎岩村平沢新十郎等より、同村前年分の種子米並びに蔵米を請取る、 脇坂内膳の、虎岩村新十郎宛の前年分の年貢米皆済手形
614
後水尾
寛永五年六月二四日
1628
安曇郡大町庄屋清兵衛等、同郡小綱村と中屋村との山林・河川争論を仲裁す、
615
後水尾
寛永五年
1628
幕府、仙石政俊をして、父忠政の遺領を嗣がしめ、上田城主となす、
616
後水尾
寛永五年七月八日
1628
是より先、徳川義直、義利、山村良勝に木曽福島関通過の手形のことを指示す、是日、良勝、義直の老臣竹腰正信に書を送り、之に応ふ、
617
後水尾
寛永五年七月一〇日
1628
山村良勝、木曽妻篭村の、元和八年より寛永三年までの年貢皆済証文を島崎与次右衛門に出す、
618
後水尾
寛永五年七月一〇日
1628
八郎右衛門等、伊那郡虎岩村平沢新十郎より木曽妻篭までの駄賃米を請取る、
619
後水尾
寛永五年七月一〇日
1628
又作、伊那郡虎岩村平沢新十郎より米を借る、
619
後水尾
寛永五年七月一九日
1628
大浜弥一右衛門、木曽王滝村の彦右衛門より年貢綿を請取る、
620
後水尾
寛永五年七月一九日
1628
脇坂安元の家臣井村五郎右衛門、伊那郡上飯田村の、前年分年貢米を皆済せるを証す、
620
後水尾
寛永五年七月二三日
1628
彦三等、伊那郡虎岩村平沢新十郎より預米を返却せらる、
621
後水尾
寛永五年七月二六日
1628
松平忠憲憲良、の姉、黒田忠之室、卒す、尋いで、忠憲、その菩薩のため、佐久郡布施村玉窓院を再興して、位牌所となす、
622
後水尾
寛永五年
1628
信濃の人原長正、卒す、
623
後水尾
寛永五年八月三日
1628
佐久間勝之、大坂に在りて、山城南禅寺金地院塔主崇伝以心、に物を贈り、近日帰国すべきを告ぐ、
623
後水尾
寛永五年八月六日
1628
長右衛門等、高井郡亀倉村のいつみより、銀子を借用す、
624
後水尾
寛永五年八月二一日
1628
山村良勝、上野横川関番に、江戸へ遣はす女等の、同所通過を依頼す、
624
後水尾
寛永五年九月五日
1628
佐久郡鎰懸村彦左衛門等、徳川忠直の奉行所に、新地検分の上開発を許されんことを請ふ、
625
後水尾
寛永五年九月一五日
1628
山城南禅寺山門五鳳楼、落成し、同寺金地院塔主崇伝、以心、慶讃陞座す、同国建仁寺大統院塔主慈稽、古澗、その陞座頌の韻を和す、
626