長野県立歴史館 信濃史料

「信濃史料」 巻二十五 (500頁~)


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天皇 年月日 西暦 記事
明正寛永八年一〇月一二日1631戸田康長、安曇満願寺領内切開地の検地を免ず、507
明正寛永八年一〇月一七日1631小県郡定津院住持英鷟、鸞峰、同寺開山宗英拈笑、の百五十年忌仏事を修す、507
明正寛永八年一〇月一七日1631佐久間勝之、江戸寛永寺に石灯籠を寄進す、508
明正寛永八年一〇月一九日1631山村良豊の家中磯野六右衛門等、木曽谷諸宿をして、御多賀松林坊のため毎年一度伝馬を調へしむ、508
明正寛永八年一〇月二七日1631仙石政俊、小県郡築地村等の本年年貢高を定む、尋いで、同郡東上田村等領内諸村の本年年貢高を定む、509
明正寛永八年一〇月二八日1631保科正之、伊那郡鉾持権現社をして、社領を安堵せしむ、520
明正寛永八年一〇月二八日1631更級郡興禅寺住持道薫、不徹、堅為をして同寺を嗣がしむ、520
明正寛永八年1631山村良豊の家中菅野三右衛門、木曽材木勘定方についての心得書を記す、521
明正寛永八年閏一〇月一日1631戸田康長の家臣関七郎左衛門等、筑摩郡小野宮に、明日康長息災祈念のため、神前に於いて湯立を行ふべきを命ず、 戸田康長の家臣関七郎左衛門等、筑摩郡小野宮神主等をして、康長の息災を祈らしむ、522
明正寛永八年閏一〇月九日1631保科正之の家臣日向兵左衛門、筑摩郡熊谷孫右衛門より、前年納年貢の貸付返済金を請取る、 兵左衛門、熊谷孫右衛門より、前年納払貸付の代銭を請取る、524
明正寛永八年閏一〇月一二日1631諏訪忠恒、老臣千野十郎兵衛に音信し、お松の身辺につき依頼す、 諏訪忠恒、千野十郎兵衛にお松のこと等を依頼す、525
明正寛永八年閏一〇月二八日1631松平忠憲、憲良、佐久郡平原村等の本年免相を定む、537
明正寛永八年一一月五日1631幕府代官天羽景慶等、高井郡犬飼村等に本年年貢を割付く、540
明正寛永八年一一月一五日1631下伊那郡福島八幡社所蔵の鰐口、成る、546
明正寛永八年一一月二〇日1631徳川忠長、佐久郡高野町村等領内諸村の本年の年貢高を定む、546
明正寛永八年一一月二一日1631諏訪頼水の家臣小沢正知等、諏訪郡古田村の久内等をして、同郡上原村山田の荒地を開発せしむ、551
明正寛永八年一一月二四日1631清八等、筑摩郡青柳村の太兵衛より、問屋役銀を請取る、552
明正寛永八年一一月二五日1631幕府代官松下勘左衛門、高井郡西条新田村に本年年貢を割付く、552
明正寛永八年一一月二六日1631伊那郡虎岩村、同村百姓の本年未進分年貢を書上ぐ、 虎岩村、同村百姓等の本年分貸米を請取る、554
明正寛永八年一一月三〇日1631是より先、紀伊和歌山城主徳川頼宜の家臣岡田儀太夫の妻等、頼宣の老臣水野重良等の書状を以つて木曽福島関を通過せんとす、良豊、前例なきを以つてその通関を停め、旨を重良等に報ず、557
明正寛永八年一二月二日1631真田信之、河原角左衛門等に知行を給す、558
明正寛永八年一二月五日1631諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋いで、重ねての御渡あり、560
明正寛永八年一二月一〇日1631山村良豊の家中川崎清左衛門、木曽黒沢村新左衛門の榑木未進分を免除す、561
明正寛永八年一二月一〇日1631幕府代官青木俊定の手代曽我佐五右衛門、高井郡箕作村の、寛永六年分の年貢を皆済せるを証す、561
明正寛永八年一二月一二日1631諏訪頼水の家臣三輪知友、筑摩郡神田村に、本年の年貢勘定目録を渡す、562
明正寛永八年一二月一三日1631松平忠憲、憲良、佐久郡野沢村の入作分年貢高を定む、564
明正寛永八年一二月一三日1631真田信之、医師坂巻夕庵平次、に足軽を預く、565
明正寛永八年一二月一六日1631脇坂安元の家臣松原秀政、伊那郡虎岩村より、越米を請取る、565
明正寛永八年一二月一七日1631徳川忠長の家臣岩波道能の手代早原八左衛門、佐久郡井出次久より、領内小物成銭を請取る、566
明正寛永八年一二月二五日1631真田信之、宮下孫兵衛に知行を給す、566
明正寛永八年一二月二七日1631諏訪忠恒、怪我の平癒せるを老臣千野十郎兵衛に報じ、徳川秀忠の病状悪化せるを告ぐ、567
明正寛永八年一二月二七日1631保科正之の家臣高津弁十郎、筑摩郡熊谷孫右衛門より、竹売代金を請取る、 高津弁十郎、熊谷孫右衛門より、竹売代金を請取る、568
明正寛永八年1631木曽奈良井宿、災火に罹る、569
明正寛永八年1631幕府、小笠原忠知の高井郡井上村等の采地を改め、上総・下総両国に替地を与ふ、569
明正寛永八年1631諏訪忠恒、諏訪社上社に鉄宝塔を再興す、571
明正寛永九年正月一一日1632水内郡古間の与助等、矢島庄右衛門より金子を借用す、573
明正寛永九年正月二四日1632前征夷大将軍徳川秀忠、薨ず、尋いで、幕府、保科正之等諸大名に命じ、芝増上寺に秀忠廟を造営せしむ、574
明正寛永九年正月二五日1632諏訪忠恒、徳川秀忠の死を、老臣千野十郎兵衛等に報ず、575
明正寛永九年正月二八日1632幕府、徳川秀忠の霊櫃を江戸城西丸より芝増上寺に移し、諏訪頼水等をして寺中勤番に当らしむ、575
明正寛永九年正月二八日1632水内郡明松寺正祝、松岩、某に嗣法す、576
明正寛永九年1632戸田康長、江戸城西丸留守居を命ぜらる、尋いで、三月、疾に依り辞す、577
明正寛永九年二月七日1632堀直升、高井郡小山郷八幡社の社家に令し、諸人の八幡新田移住を促さしむ、577
明正寛永九年二月一〇日1632信濃の人蔦木盛次、卒す、578
明正寛永九年二月一一日1632松平忠憲、憲良、彦左衛門に佐久郡中井新田の開発を許す、578
明正寛永九年二月一四日1632真田信之等、故徳川秀忠遺物として、銀子を賜はる、 徳川秀忠より真田信之、脇坂安元宛の書状579
明正寛永九年二月一五日1632諏訪忠恒、老臣千野十郎兵衛に音信し、お松の事等諸事を依頼す、590
明正寛永九年二月一九日1632諏訪忠恒、老臣千野十郎兵衛に音信し、帰国の時期等を告ぐ、591
明正寛永九年三月二日1632伊那郡虎岩村の吉十郎、種子米を借用す、尋いで同村内蔵等も借用す、594
明正寛永九年三月八日1632小県郡定津院住持英鷟、鸞峰、寂す、尋いで、前住英点、雪堂、再び同寺住持となる、597
明正寛永九年三月二〇日1632高井郡牧村、幕府代官天羽景慶等に、同村田畠反別・年貢高等を書上ぐ、597