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(二)三好長輝

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 三好長輝は又之長と云ひ、喜雲と號した。始め主膳正と稱し、後筑後守に改めた。小笠原長清の二男、長房始めて阿波に住し、八世義長に至つて、三好郡に住し、よつて三好氏を稱した。足利幕府の末葉、細川氏衰へ、【三好氏の專權】三好氏陪臣として、其政權を專らにするに至つた。義長の孫は卽ち長輝である。文明年間細川氏の先鋒として、北國の兵を京師に破り、細川澄元を援けて、澄之を誅伐し、澄元を管領とした。永正元年二月長輝は、【海船濱の樓臺】邸宅を堺海船濱に起こさんとし、京都より堺に下り、四月土木の役を始めた。其境域東西三百六十步、南北之に倍し、中間に高樓を構へて、展望に便ならしめ、且つ非常の衞戍に備へ、樓中には鐘、鼓、陣具等の兵器を貯へ、常に樓上より非常を窺ひ、族黨をして、月次輪番せしめ、其身常に京師に在るも、地勢四國との聯絡に便なるを以て、堺を本館とし、攝津の尼崎城、和泉の新堀城、岸和田城、河内の小山、古市の諸城駐在の幕下をして相連絡せしめんとした。然し長輝は未だ全く其落成を見るに及ばなかつたが、其子元長の代に至り、輪奐の美殆ど成り、【堺政所】大永元年三月には政所の號を賜はつた。斯くして元長の歿後、長慶、義興、義繼の三代相繼いでこゝを治所としたと云はれてゐる。(海船政所記(全堺詳志卷之上))【大内、細川氏との角逐】永正五年四月大内義興大擧して堺に上陸し、七月京都に入りて前將軍義尹を復職せしむるに當り、翌年六月長輝は澄元を擁して、京師を襲ふたが、敗れて澄元と共に阿波に遁れた。然し同八年七月には和泉を侵し、翌月義稙の餘黨細川高國の爲め舟岡山に破られ、再度四國に逃れた。次いで十六年十一月長輝澄元に從つて兵庫に至り越水城に河原林政賴を攻め、翌十七年二月城を陷れて京都に入つた。既にして高國近江の佐々木氏に憑り、【長輝の敗死】五月大擧京都に迫まり長輝之と戰つたが、利あらず敗れて曇華院に入つて捕へられ、此月十一日遂に細川尚春の子彦四郞の殺す所となつた。