足利義維は義澄の第二子で、義晴の弟である。阿波の細川澄元の許にあつたが、三好元長兵を率ゐて、義維及び細川晴元を奉じて入京せんとし、大永七年三月同勢堺に入り四條道場に屯した。(細川兩家記)七月義維元服を加へ、從五位下に敍し、左馬頭に任ぜられた。【堺御曹子】京人之を堺御曹子と呼んだ。(足利季世記)後元長は晴元に疎んぜられ、享祿五年六月顯本寺に自刄した。時に義維は四條御所より來つて、偕に死なんとしたが、晴元は之を四條道場に送つた。(細川兩家記)此四條道場或は四條御所などゝ稱するのは、引接寺のことである。(堺南北寺庵本末開基宗旨改帳、堺鑑中)其終焉の地は明かでない。