日現は佛壽院と號した。【本門寺第十一世】武藏池上本門寺の第十一世である。幼にして池上に出家し、同國仙波天台宗の僧佛藏院實海法印に就いて天台學を硏鑽した。後京に出でゝ遍く碩學の門を叩き、最も宗意に通じ、智目行足、其名一世に高く、遂に聖聽に達し、權大僧都法印位を賜はつた。諸方を教化し、殊に兩總に其教線を張つた。後池上大坊本行寺主となり、日陽の命によつて、本門、妙本の兩寺を司どり、職に在ること二十一年であつた。(本化別頭佛祖統記)其間、【日辰と論難す】天文二十三年京都要法寺の日辰が、布教宣傳の爲めに堺に下り、調御寺に於て獅子吼するに當り、當時妙法寺に在留した日現は、三箇條の難問書を送つて大に論難を鬪はした。(日辰上人傳)其永祿二年六月佐渡の正住院に送つた書翰を見ると、堺妙法寺を瓦葺に替へ、其間の功勞に對し本山妙顯寺より褒賞せられ、又從來の佛壽坊を佛壽院と稱すべきの辭令を受けてゐる。【十一人衆の佐渡下向】日現亦其弟子堺衆十一人を佐渡に下し、大に折伏弘通に努め、是より同宗更らに佐渡に行はるゝやうになつた。(越佐史料所收妙經寺文書)曾て古川眞言宗藥師堂の別當某と對論し、遂に之を折伏し、約に從ふて其密迹、金剛の大像を池上に移した。乃ち今の二王是れである。日現平生の勤行は能く三十人に匹敵し、凡庸の能く及ぶところではなかつたと云はれてゐる。永祿四年七月二十一日世壽六十六歳を以て示寂した。(本化別頭佛祖統記)