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(四七)日諦

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 日諦常光院と號した。壯年にして南都に游び、比叡山に登り、唯識教觀の奧旨を究めた。【道三厚聘】美濃國主齋藤道三德風を聞き、禮を竭くして之を厚遇した。卽ち美濃に安居すること數年、道三歿落の後、京都に隱棲した。堺の日珖其德操を崇め、招いて講經を請ふた。時に山光院日詮堺に在り、倶に三光勝會を結んだ。日諦謙讓して、講經を肯ぜなかつたので、三師は相議して、【六齋講説】遂に六齋を以て、相講説することゝした。これ教學振興の先驅で、談林の先蹤たるべきものである。此時の聽講者には、舜孝、尊秀、智鏡、日千、日諝及び日重等があり、皆一世の英俊であつた。日諦の門人日嚴は、傍らに在つて之を記錄した。三六無師會と稱するもの卽ち是れである。【尊契との問答】始め天台の尊契が、念佛無間の説を問ふた。日諦は善導の千中無一、法然の捨閉閣抛は、唯除五逆誹謗正法の金言に違ふものではないかと答へた。尊契は重ねて宗意を問ふた。卽ち、日蓮慈悲廣大等の文を擧げて之に答へた。尊契之を聞いて智慧廣大と言はず慈悲廣大と言ふ、眞に聖者であると深く歎稱した。天正十三年八月二十一日示化した。(本化別頭佛祖統記)