宗園、字は春屋、一默子と號した。山城の人で、俗姓は薗部氏、笑嶺宗訢の法を嗣ぎ、【大德寺出世】永祿十二年三月大德寺に出世し、其第百十一世となつた。【南宗寺第三世】四月堺南宗寺に入つて、其第三世となり、元龜二年四月大德寺に再住開堂した。其他筑前崇福寺の七十七世となり、本山に三玄、龍光、貞嶽(紫巖譜略には芳香)の三院を創立した。(龍寶山大德禪寺世譜)又堺の山岡宗無藥仙寺創建に際し、請せられて其開山となり、(龍寶山大德禪寺世譜、茶人系傳全集)又近江の佐和山に瑞嶽寺を建てた。天正十四年十月正親町天皇は、【禪師號並びに國師號敕賜】勅して朗源天眞禪師の號を賜ひ、慶長五年十二月後陽成天皇は、特に勅して大寶圓鑑國師の號を賜はつた。同十六年二月九日、世壽八十三歳を以て示寂した。(紫巖譜略、東海和尚紀年錄)辭世の偈にいふ「蹈二飜天地一、喚レ東作レ西、拄杖拄杖、歸去來兮。」と。大德寺塔頭三玄院に葬つた。(寶山住持世記上、龍寶山大德禪寺世譜)