宗立諱は江雪、破鞋子、枯髏子又は不如無(一に不如子)と號した。(寶山住持世記上、紫巖譜略、龍寶山大德禪寺世譜)【堺の人】【旭蓮社に得度】堺に生れ、始め旭蓮社に入つて剃髮出家し、次いで澤庵に師事すること數年、遂に法を江月宗玩に嗣ぎ、龍光院の第一頭となつた。【大德寺住職】【同寺再住】正保元年十二月大德寺第百八十一世の住職となり、同三年九月再住した。慶安四年品川東海寺の輪番職となり、大德寺山内に看松菴を創立して常住した。次いで黑田侯筑前秋月に古心寺を創立に際し、第二祖となつた。(龍寶山祖師傳及び紫巖譜略には江雪を以て古心寺の初祖として居る。然るに同寺の創立は江雪ではあるが、其師江月宗玩を開山の始祖として居ることが、大日本寺院總覽に見えて居る。故に今龍寶山大德禪寺世譜に從ひ、第二祖とす)又東海寺内に桂昌院、京北に松泉菴、山城の大原村に卽心、東向の二菴等を創建した。(龍寶山大德禪寺世譜)【南宗寺十六世】【同寺諸堂題名と十境の撰定】次いで南宗寺第十六世となり、(南宗寺歷世年譜)明曆二年同寺の十境と諸堂の題名を定め、題書を諸高德に需め、又自らも執筆した。(南宗寺十境幷諸堂題書箱書)就中曹溪の扁額のみには、明曆第二歳舍丙申仲冬二十七日就興住山江雪宗立書と紀年を明かにして居る。詩文に長じ、兼て書畫を能くした。(續本朝畫史卷下)寬文六年六月十九日世壽七十二歳を以て示寂し、看松菴に葬つた。【禪師號勅諡】同年十一月後西上皇は大綱智海禪師の號を勅諡せられ、天和二年五月遺牌を祖堂に納めた。(紫巖譜略、寶山住持世記上、龍寶山大德禪寺世譜)