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(一一六)吉川俵右衞門

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 吉川俵右衞門は江戸淺草福川町の住人で、堺港灣の改築者である。享保十五年出生した。【堺港修築の動機】【修築迄の經緯】【工事完成】安永六年偶々堺にあつて築港の急を感じ、翌七年願書を提出したが、容易に容るゝところとならず、漸く寬政三年に至つて許され、文化七年に至つて總工事の完成を見るに至つた。(湊普請願一件)

第五十四圖版 吉川俵右衞門墓表

 
 
 俵右衞門氣宇高邁にして辯舌に長じ、意志強固にして、注意精緻を極め、(吉川俵右衞門畫贊)創意以來三十有餘年、起工後二十年にして、漸く當初の志望を達成することが出來たのである。文化七年二月二十日享年八十一歳を以て歿した。【墓所】法號を泉溟院奏誓信現居士といひ(墓表)墓碑は神明町東二丁超願寺にある。もと梅翁寺に在つたが、同寺退轉後此處に移されたものである。【墓碑】又嘗て吾妻橋通一丁堺停車場前の民家に、方柱の小碑があつて碑の表面に「うらやまし八十に餘る年をつみなき跡もまたあふかるゝ身は」
 左側に「天地四方恣獨步、奇計百功舌三寸、文者班馬倶低昻、辨者蘇趙相上。」下右側に「文化七午年二月廿日 新川開發人吉川俵右衞門墓」とし背面に法號を鐫刻してあつた。蓋し俵右衞門の歿後、親族等によつて邸地に建てられた紀念碑であらう。(堺市史蹟志料)此碑今戎之町吉川庄右衞門氏方に移されてゐる。【功業碑】猶大濱北公園浪除住吉社の畔にも、明治三十三年五月市の有志によつて建設せられた功業碑がある。
 【贈位】大正八年十一月築港の功を以て從五位を追贈せられた。