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(一四八)近藤隆昌○文溪

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 近藤隆昌諱は明、字は隆昌、文溪と號した。【華溪隆昌の次子】先考華溪隆昌の次子で、堺に生れた。長男夭死の爲め、文溪家業を繼いだ。人と爲り恭謙篤實、技神に入り、人皆之を歎稱した。【堺奉行三宅康哉の知遇を受く】多年堺奉行所に出入し、奉行三宅康哉の眷遇を蒙ること厚く、同水野信行の時に方り、戸役を免ぜられ、幸を子孫に傳へた。文政七年五月十一日、享齡五十三を以て歿した。法號を覺明院芳雲文溪居士といふ。遺命により、長慶寺(新在家町東四丁)にある、奉行三宅康哉の墓側に葬つた。【墓所】嗣子文昇碑を建て、文を興文堂寺田幸隆に囑した。碑銘は卽ち幸隆の撰書にかゝる。(文溪近藤隆昌墓碑錄)著書頗る多かつたが、藤氏醫談正續編、藤氏醫則及び攝生談等は上梓して、【著書】皆世に行はれた。(藤氏醫談奧附)