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(一六八)三宅寄齋

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 【堺に生る】三宅寄齋名は島、字は亡羊、江南野水翁と號した。通稱は寄齋、又以て號とした。或はいふ通稱は玄蕃と。天正八年正月堺に生れた。【帷を京都に下す】十一歳父を喪ひ、十九歳伏見、京都に遊び、大德寺に寄寓して、苦學數年、學に常師なく、自ら漢唐の註疏を以て帷を京都に下し、子弟に教授し、まゝ程の書を講じ從學の徒頗る衆かつた。(先哲叢談後編卷之一)又神書に通じ、和歌をよくし、千宗旦の門に入つて茶湯を修め(茶人系傳全集、茶家好古集覽)且大いに國文の普及に盡した。【徒然草の刊行】卽ち慶長十八年には徒然草を刊行し、烏丸光廣其委囑をうけて、之に校訂を加へたのを見ても、其一端を窺ふことが出來る。(慶長十八年刊徒然草奧書)石田三成辭を卑うし佐和山城に召して經史を講説せしめ治道に資せんとしたが、寄齋往來すること僅に三囘其心術を察し、疾と稱して再び交らなかつた。

第六十圖版 三宅亡羊短冊

 
 

第六十一圖版 刊本徒然草卷首及跋文

 
 
 【資性】寄齋資性謙讓、名聞を欲せず藤原惺窩に兄事し、惺窩は寄齋よりも長ずること十九歳であつたが、能く之を愛敬し、謙厚の君子人と稱した程であつた。
 【公卿諸侯待つに賓師の禮を以てす】寄齋歳四十を踰えて、其學に就くもの益々多く、近衞信尋(應山)を始め、藤堂、黑田、伊達、津輕、板倉の諸侯皆賓師の禮を以て之を遇し、之を聘用せんとする者があつたが、皆辭して應ぜず、餘暇あれば香茶挿花を娯みにした。【經史を便殿に講ず】斯して久しく輦轂の下に教授し、道を搢紳の間に唱へ、其道譽一時に高く、竟に叡聞に達して、後陽成上皇、後水尾天皇内旨を以て經史を便殿に講ぜしめ、段匹名香を恩賜せられ、時人皆之を榮とした。【嗣子】嗣子なく、門人合田道乙を養ひ、女を以て之に娶はした。【墓所】慶安二年六月十八日壽七十歳を以て、京都油小路の家に歿し、洛北鷹峰に葬つた。其墓碑は正面に處士亡羊子之墓の七字を題するのみである。蓋し此地は慶長中後陽成天皇より賜ふた所で、所謂鷹峰四十間四方塚といふものであると云ふ。(先哲叢談後編卷之一)