第六十圖版 三宅亡羊短冊
第六十一圖版 刊本徒然草卷首及跋文
【資性】寄齋資性謙讓、名聞を欲せず藤原惺窩に兄事し、惺窩は寄齋よりも長ずること十九歳であつたが、能く之を愛敬し、謙厚の君子人と稱した程であつた。
【公卿諸侯待つに賓師の禮を以てす】寄齋歳四十を踰えて、其學に就くもの益々多く、近衞信尋(應山)を始め、藤堂、黑田、伊達、津輕、板倉の諸侯皆賓師の禮を以て之を遇し、之を聘用せんとする者があつたが、皆辭して應ぜず、餘暇あれば香茶挿花を娯みにした。【經史を便殿に講ず】斯して久しく輦轂の下に教授し、道を搢紳の間に唱へ、其道譽一時に高く、竟に叡聞に達して、後陽成上皇、後水尾天皇内旨を以て經史を便殿に講ぜしめ、段匹名香を恩賜せられ、時人皆之を榮とした。【嗣子】嗣子なく、門人合田道乙を養ひ、女を以て之に娶はした。【墓所】慶安二年六月十八日壽七十歳を以て、京都油小路の家に歿し、洛北鷹峰に葬つた。其墓碑は正面に處士亡羊子之墓の七字を題するのみである。蓋し此地は慶長中後陽成天皇より賜ふた所で、所謂鷹峰四十間四方塚といふものであると云ふ。(先哲叢談後編卷之一)