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(一七〇)高志芝巖

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 【堺の人】高志芝巖名は利貞、字は松年、號を嘿山、道號を芝巖、法諱を昭皓と稱した。道號は黃檗南源禪師の命名である。(芝巖居士壽塔銘幷序)利次(自適齋閑溪了休居士)の嫡男(自適齋閑溪了休居士 墓表)【家系】母は同鄕の西脇氏である。寬文三年十月出生した。其先は泉州の人、高志氏、卽ち百濟王仁の後裔金高志氏で、中葉克昌を其祖としてゐる。利貞五世の祖、全立金沙榷司であつたときに、金高志宗得と稱して、羽柴秀長の殊遇を得、天正年中笠置城に在つたが、慶長十年に至り鄕里に歸り、宗昆時代に遂に居を堺南庄に定むるに至つた。其子德壽、德壽の子閑溪相繼いで利貞に至つた。【惣年寄】父利次閑溪)は嘗て惣年寄となり、利貞亦其職を襲ぐこと三十年に及んだ。【德化】利貞性恬安頗る名望あり、訟者あれば一々理を以て之を諭し、市民悅服德風一鄕を化した。又公務の餘暇書を讀み、略々經史儒釋に通じ、該博を以て稱せられ、門人亦頗る多かつた。(芝巖居士壽塔銘幷序)【全堺詳志を編む】利貞亦地誌を好み、衣笠一閑堺鑑未だ盡さゞるところあるを惜んで一書を編著した。其弟羪浩之に刪定を加へたものは、卽ち全堺詳志である。(全堺詳志序)【墓碑】晚年世務を絶ち、參禪して老を養ひ、享保十一年五月壽塔を南宗寺の塔頭本源院の兆域に建て、同十七年二月十一日享年七十歳を以て歿した。(芝巖居士壽塔銘幷序)