奧野小山諱は純、字は溫夫、通稱を彌太郞と稱し、小山と號した。(墓誌)【篠崎門下の四天王】大阪瓦町の人、篠崎小竹に學び、安藤秋里、橋本香坡、加藤訥堂と共に、篠崎門四天王の稱があつた。傍ら繪畫を森徹山に、能樂を小松原新右衞門に學んだ。後專ら經學に心を潛め、業成つて教授した。(大阪人物誌卷二、近畿墓跡考)【帷を堺に下す】天保十年より弘化元年に至る約六年間、堺に寓居して帷を垂れ、教授を事とした。(小山堂詩鈔)後近江三上藩主遠藤侯に仕へ、大阪藏屋敷の留主居役を勤めた。天資豪邁、詩文に巧みであつたが、偏執の癖があつて、小竹卒去の際にも、葬儀のことで、香坡等と爭ひ、遂に會葬に漏れたといふ。安政五年八月二十日享年五十九歳を以て歿した。【墓所】大阪市北區天滿西寺町圓通院に、墓碑がある。(大阪人物誌卷二、近畿墓跡考)【著述】著作に小山堂詩鈔、小山堂文鈔等がある。(諸家著述目錄)