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(一八七)廣瀨旭莊

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 廣瀨旭莊名は謙、字は吉甫、謙吉と稱し(事實文編)旭莊又は梅墩と號した。豐後日田の人、淡窻の弟で、龜井昱に學んだ。【堺に來り專修寺に寓居】三十歳の時同鄕人で、堺に醫を開業せる、小林安石の懇請に應じ、天保七年五月來つて、安石の邸に入り、淹留三旬、其斡旋により、七月神明町寺町專修寺(神明町東三丁に其寺址がある)に寓居し遠思樓集を講じた。聽者僅に隣寺善長寺の僧、安石其他の二三子に過ぎなかつた。【甲斐町に徒る】【逍遙吟社】十一月甲斐町大道新屋四郞左衞門の宅に移り、翌八年正月逍遙吟社を結び、初會を指吸氏の別莊に開いた。會するもの、〓圓意、河野佐太郞橋本左司馬、足立新助、井岡玄策、佐佐木育助、僧悟堂、僧惠遁、小林安石等凡十五人であつた。此吟社は後屢々開會せられた。【江戸に游び堺に還る】二月初江戸に遊歷し六月亦堺の僑居に歸つた。居ること月餘、八月旭莊堺を發して、歸鄕の途に就いた。(日間瑣事備忘)【堺人を評す】旭莊堺に在ること一年、大に文運を開發したが、而も堺人多くは利趁ふに急がしく、向學の志甚だ薄く、未だ名を爲すものなきを歎じた。天保九年大阪に住し、就學のもの甚だ多く、十三年には大村侯に聘せられ、既にして翌年五月江戸に移り、弘化三年亦大阪に歸つた。【堺に來遊す】其滯阪中、屢々堺に來り、知友殊に古家魯嶽などと舊交を溫めた。然し晚年には病に罹つて池田に徙り、文久三年八月十七日歿した、享年五十七歳。【墓所】大阪市天王寺區茶臼山町邦福寺に其墓碑がある。(日間瑣事備忘)
 【詩才】旭莊詩文に長じ、清儒愈曲園は稱して東國詩人の冠とし、其才氣橫溢變幻、殊に長篇大作に長じ、片言單詞も亦永く味ふべきであると評し、齋藤拙堂も其集に敍して、吉甫の詩才縱橫にして、泉の湧くが如く、雲空に飜り風の葉を捲くがやうであると推賞した。(日間瑣事備忘跋)【著書】著書に、宜園百家詩編、高青邱詩抄、梅墩詩鈔、旭莊小編、九桂草堂隨筆、日間瑣事備忘等がある。(諸家著述目錄)