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(二六四)中村宗治

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 【家久の男】中村宗治は家久の男で、道號を宗貞と稱した。寬文七年八月天倫宗忽の堺德泉菴に來るに際し、宗治祖先追福の爲に一寺を創め、開祖たらんことを請ふたが、未だ其土地を定むるに至らなかつた。延寶五年十月宗治先考宗有の小祥忌に方り、天倫の弟子となり、剃髮して宗貞と號した。翌六年宗貞は重ねて一寺開設のことを天倫に謀つた。【南宗寺の再興に努む】然し荒廢既に久しき南宗寺を再興するの勝れるを聽き其命に遵ふた。
 【弟宗久】【禪樂寺の再興】弟宗久は通稱を海部屋平右衞門といひ、(祥雲寺略記)亦兄に倣ふて、天倫退休所として、天和三年不盡菴を再興し、宗貞は後亦元祿十年之を擴張した。宗貞元祿十一年十月二日享年六十七歳を以て歿した。法號を天德宗貞居士といふ。(天德宗貞居士墓誌)【男宗雪】子を宗雪といひ、享保年中南京寺に茶人千宗旦の仲子原臾宗佐の塔を建て、(全堺詳志卷之上)同十年十月大鑑禪師清拙の墨蹟漏月菴の軸を南宗寺に寄進した。元文二年三月九日卒去、法號を梅僊宗雪居士といふ。(梅僊宗雪居士墓誌)【墓所】父子共に禪樂寺に葬られた。
 【中村家の末路】中村家が父子兄弟相繼いで南宗寺及び禪樂寺の外護者となり、荒廢せる寺院の復興に努力したことは、堺の寺院史上沒すべからざる業績である。然るに其墓碑は禪樂寺址荒草蓁々の程に隱れ、今は殆ど忘れられてゐる。