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(三五)屋崎正明

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 尾崎正明通稱は莊右衞門、【具足屋】屋號を具足屋と稱し、第八世を嗣ぎ、(開口神社奉納源氏物語箱書)堺市之町東三丁(現二十五番地)に住んだ。【人と爲り】人と爲り、溫厚篤實にして衆望あり、(尾崎正明畫像裏書)國學の造詣深く、(國學人物誌初篇)考證に力を注ぎ、【交友】加納諸平等と盟交して、屢々意見を鬪はした。(月舍遺抄)又和歌を善くし、【狂歌の雅名】殊に其狂體は、才氣橫溢、秋夜長樹、和群居或は綠龜園等の雅號を以て知られ、文政、天保の交に上梓せられた歌集に收錄せられたものが少くない。(東西集、狂謌蘭亭帖、狂歌日本風土記、狂詠都名物集、今樣三十六仙歌集、菱花集)【將軍家茂の送迎】文久三年將軍德川家茂上洛し、攝海防備視察の爲め、大阪並びに堺に來駕の際、【總年寄】莊右衞門は絲年寄又は惣年寄として送迎其他の任に當つた。(將軍御上洛に就て取扱一件)【宿老】慶應四年閏四月宿老に擧げられ、明治三年十月制度の廢止に至るまで、在職した。(宿老乙名名前帳)晚年落魄して祥雲寺内の一支坊に寓居し、(武井彦四郞氏談話)明治十一年十一月十二日享年七十歳を以て歿し、(尾崎正明畫像裏書)【墓所】南宗寺墓地に葬つた。

第八十三圖版 尾崎正明畫像