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(四七)和田幾太郞

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 和田幾太郞字は積善、直堂と號した。【益齋の男】益齋(幸三郞)の男、【神明町に生る】天保十四年二月二十五日神明町五番邸に生れた。【修學】嘉永元年より先人益齋に就て略々讀書及び習字に通じ、八年經學を奧野小山に受け、後堺鄕學所の教授小林新助に學んだ。明治二年十二月、【組頭役、年寄役】組頭役を、翌三年十一月年寄役を命ぜられ、又是より先、【鄕學所漢學用掛】元年八月鄕學所漢學用掛を命ぜられ、二年九月、學制改革により、從來の勤務を免じ、更に同所教諭方を命ぜられ、【苗字帶刀允許】同時に學校出席並びに出講の際には特に苗字帶刀を允許された。五年四月、縣學分校筆道教授となり、校務の餘暇家塾學半舍を開き、學生を陶薰した。税所縣令舊寺子屋を廢して小學校を興立し、教育の統一計晝に際し、五月、【小學校教職】泉州一番小學助教に擧げられた。六年四月、四番小學准一等助教に、八月更に河泉學校助教に任ぜられ、七年九月、河泉小學視察掛となり、專ら小學校教授法改善の任に膺つた。八年二月、四等訓導に補し、四月、一番小學在勤を命ぜられた。十年二月、明治天皇熊野小學校學業天覽の際には授業擔任の命を受けた。十六年八月、錦小學校長心得となり、同年十一月、【文部省賞を享く】文部省は教育上功績の顯著なるを認め、一等賞として六國史並びに硯匣一個を授與した。十七年一月堺各小學校四級以上の生徒を收容教育の爲め、櫛屋小學校新設に際し、七月、同校に轉じ、翌十八年五月、同校長兼四等訓導に任ぜられた。會々文部省御用掛森有禮同校を視察し、教授法は閒然するところはないが、體育を如何にすべきかと問ひ、幾太郞は大に體操科を盛にし、【兵式體操の必要を唱ふ】之に兵式を加へて鍛練に資せんことを以てし、有禮之を可とした。十九年、父兄の懇望により錦小學校に轉任した。二十四年、堺高等小學校紛擾あり、市參事會は其手腕に期待し、再轉せしめて同校整理の任に當らしめんとの議を決した。是に於て四月同校長兼訓導に轉任し、拮据三年、全力を擧げて改革の衝に當つた。會々病に罹り、劇務に堪へず、二十六年三月休職を命ぜられ、次で九月小學校教員普通免許狀を授與せられ、翌年三月退職を命ぜられた。其間亦、小學、女紅場、裁縫場生徒の試驗委員に、或は學事共進會審査員等に擧げられ、又私立大阪教育會堺支會報告委員を囑託せられ、始終教育事業に盡瘁した。(和田幾太郞手錄雜抄)次いで明治三十五年、【堺史編纂員】堺史編纂員となり、中井作次等と與に主として、資料の蒐集及び考證に從事した。(堺大觀、堺史編纂顚末書類)大正五年十一月二十九日享年七十四歳を以て歿し、【墓所】遣骨を聞藏寺に葬つた。法號を釋靜觀と云ふ。