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(三)廢金光寺

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 金光寺松藤山と號す。【寺址】寺址は宿屋町東三丁寶珠院の西隣にあり、時宗金蓮寺末で、(社寺明細帳)【創祀】承和年中の草創と傳られてゐる。【本尊】本尊藥師如來は當堺浦の海中より、漁夫の網に入つて獲たるを以て網道場といふと。(堺鑑中)【沿革】開基は眞澄、(社寺明細帳)始めの宗派は明かでないが、後天台宗の道場となつた。興國、正平の頃伽藍炎上し、住職往阿彌引接寺智演に歸入して屬寺となり、正平七年再興の功を竣り、寺門復び隆盛となつた。或はいふ、往阿彌中興して寺門隆昌となつたので、阿彌道場と呼ぶやうになつたと。(堺鑑中)【後小松天皇御愛賞の紫藤】堂前に紫藤あり、後小松天皇藤花の艶麗なるを聞かれ、之を皇居に移植せしめられたが、程なく枯損した。【御製和歌の御下賜】或夜天皇夢中に、「おもひきやさかいの浦のふちなみの宮古のまつにかゝるへきとは」の和歌一首を御感得になり、是れ正しく彼の藤樹の精靈の致すところならんと、此御製を附して藤樹を當寺へ返還し、舊址に植ゑさせ給ふたが、枝葉忽ち繁茂して舊觀に復し人皆之を奇とした。(堺鑑中、泉州志卷之一、)此事叡聞に達し、復び御製を下賜せられた。(堺鑑中)然るに樹齡久しきを重ね遂に枯損し、現存のものは別樹を移植したものであると云ふ。【印寺領】當寺は豐臣秀吉の時に寺領十九石を寄せられ、(堺鑑中)德川氏を經て(代々手鑑)明治維新後上地の際に至り、三百九十九坪の境域を有したが、【廢合】明治三十五年七月隣寺寶珠院に合併せられ、廢寺となつた。(社寺明細帳)