【所在】行基の開創したと云はれる向泉寺址は市之町東五丁字向井領町にある。【元祿二年の境域】境域は元祿二年の堺大繪圖に市之町寺町筋にあつて東面し、東は道路を隔てて泉然寺、法行寺、西は西方寺及び道路、南は眞如菴、北は阿彌陀寺に接した東側十四間半(新間十五間四尺二寸五分)西側六間半(新間七間二寸五分)北側三十間(新間三十二間三尺)を有し、南側には多少の屈曲があつた。【舊址】此地域を現在地へ實測するには起點を向泉寺南隣眞如菴東南隅に當る市之町東五丁二十三番地尾上龍藏氏住宅の東南隅に置くのが便利である。卽ち同所は往時の目口寺町(東西筋、今の市之町南筋)と向泉寺表筋たる市之町筋寺町(南北筋、今の市之町東五丁)とが丁字形をなした所であるから、同所から北へ眞如菴の南北幅員たる九間一尺四寸(新間九間五尺九寸)北へ立寄つた略々尾上氏の東北隅は向泉寺東南隅の址となる。此東南隅の址より向泉寺表筋たる十五間四尺二寸五分北へ立寄つた同丁二十四番地槌田久左衞門氏住宅は其東北隅の址に相當する。又向泉寺裏筋に當る西側は元祿富時南北を限る西方寺、阿彌陀寺が共に現存してゐるから、其址域も一目瞭然である。是等舊址の地籍は市之町東五丁十五番地、二十四番地ノ七より十六番地迄の區域に相當する。元來寺は創建當時より前記の所に建てられたのではなく、永正年間兵火囘祿の後に新地に再建されたものであつた。(堺鑑)【創建地舊址】其以前の創建地は現今榎町に空地として傳はり、其寺址區域中にある井戸は寺名起因となつた閼伽井と稱し、傳行基開鑿と云つてゐる。