【所在】禪通寺は戎之町東四丁にあつたが、明治三十九年少林寺町東三丁の少林寺へ合併せられた。【元祿二年の境域】同寺は德川時代水落町(戎之町東四丁南御坊表門南北筋)にあつて西面し、東は農人町人家、西は水落町道路、南は龍門寺、智禪寺、地賢寺、北は道路を隔てゝ南御坊、妙滿寺に接した東側四十間五尺五寸(新間四十四間一尺五寸)西側三十五間五尺五寸(新間三十八間五尺)南側六十間半(新間六十五間三尺二寸五分)北側四十八間七寸(新間五十二間七寸)の境域であつた。(元祿二年堺大繪圖)【舊址】此境域の舊址は東北端が戎之町西四丁十一番地大西卯藏氏住宅、西北端は同丁二十一番地ノ二半井久元氏住宅に當つてゐる。右東北、西北兩端より各々禪通寺東西兩側の延長分南へ立寄つた空地は其東南、西南、兩端の址となる。現在舊址の大部分は同丁四十五番地森本仁平氏の所有に係り、同氏經營の酒庫干場等がある。殊に東側の境界は元祿當時のまゝに内農人町と境し、【墓地址】舊址東南隅には墓地を存し、南無阿彌陀佛と刻した板碑の一種或は森本氏先代及び白幡氏範、小笠原氏親、堺奉行小笠原信用等の墓碑がある。猶舊址區域中、西側は德川時代の寺域と相違し往時禪通寺西側が水落町の道路であつたのが、現在では舊址西側の西一帶に猶五間有餘の屋敷地がある。是は水落町道路に當る南御坊表門南北筋の幅員が往時よりも縮少して屋敷地となつた爲めである。